臼杵城〜大分県臼杵市〜
○解説
臼杵城は1556(弘治2)年頃(※諸説あり。現地解説板による)、戦国大名の大伴義鎮(宗麟)が丹生島に築城をしたのが始まりといわれ、周囲が埋め立てられた現在の状況からは想像しづらいですが、元々は臼杵湾に浮かぶ海城でした。豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄慶長の役)の際、義鎮の嫡子である大友義統が誤報により勝手に撤退したことが罪に問われて改易。その後は豊臣家配下の福原直高、太田一吉が入封して城下を整備し、関ヶ原の戦い後は稲葉貞道(稲葉一鉄の長男)が入封。以後、稲葉氏が明治維新まで臼杵城を領有しました。
現在は畳櫓、卯寅口門脇櫓が現存するほか、2001(平成13)年に太鼓門が復元されています。
(撮影:リン/解説:裏辺金好)
○場所
○風景
幕末の臼杵城下絵図
この時代でも周囲は海や川に囲まれています。
畳櫓
明和年間(1776〜1772年頃)の再建と推定。珍しい名前ですが、その由来は中に畳が敷かれていた、方角の「辰巳」が変化したなど諸説あり不明です。
太鼓門
二の丸西側中央に位置する二階櫓門。この奥が二の丸、さらに奥へ行くと本丸となり、かつては臼杵湾が広がっていました。船着場もあり、いざというときは脱出も出来たとか。
二の丸跡
天守閣跡
卯寅口門脇櫓
1854(嘉永7年)築。