忍城・石田堤とその周辺〜埼玉県行田市〜
忍城の起源は諸説ありますが、15世紀後半に成田氏によって築城されたと推定されています。のちに成田氏は北条家配下となり、豊臣秀吉の小田原攻めでは石田三成の侵攻を受けます。このとき、城主の成田氏長は小田原に参陣していましたが、忍城を守る家臣たちは石田三成の水攻めにも耐え、落城を免れました。
しかし、北条家が豊臣秀吉に降伏したため開城。徳川家の支配下に置かれ、松平家忠、松平忠康(忠吉)、酒井忠勝、松平信綱といった重鎮が城主に。そして、1639(寛永16)年に阿部忠秋が入封すると9代続き、その後は松平(奥平)氏5代が続き、明治維新を迎えました。
現在、北谷門が埼玉県加須市の総願寺山門として移築されている以外は、往時の建物は残っておらず、忍城の特徴であった沼地の中に、複数の曲輪が浮島のように配された特異な構造も、僅かに外堀跡の水城公園に面影を見るのみです。その一方、1873(明和6)年作成の「忍城鳥瞰図」での描写をベースに三階櫓が復興されているほか、石田三成が忍城攻めに造った「石田堤」が僅かながら行田市内に残っています。
このページでは成就院三重塔、高津家住宅、旧・忍貯金銀行を併せてご紹介します。
(撮影&解説:裏辺金好)
○場所
○忍城
忍城今昔地図
御三階櫓
東門
○水城公園
○石田堤
石田堤
豊臣秀吉が関東平定が小田原の北条氏を攻めた際、秀吉家臣の石田三成が、北条氏方の成田氏が守る忍城を攻略するために、自然の築堤等に1〜2m程度盛土するなどして、忍城の周囲約28kmに渡って、水攻めのために僅か1週間で構築した堤の跡です。利根川や荒川の水で忍城を水浸しにする予定でしたが、増水した水が堤防を決壊して逆流し、石田方に多くの被害を与えてしまい、失敗に終わっています。
石田堤碑
1866(慶応2)年建立。石田堤が失われていくことを嘆いた地元の名士が、石田堤の存在意義がいかに素晴らしいか、「凡そ耳目鼻口の心志を感動せしむるや目を最もと為す・・・」など、熱い思いを掘っています。
忍城水攻め想定図
石田三成が陣を置いた丸墓山古墳
現在残る石田堤の北にある、さきたま古墳群の1つ、丸墓山古墳には石田三成が陣を置きました。また、写真左手にも石田堤が伸びており、僅かながら痕跡を見ることが出来ます。
丸墓山古墳前の石田堤跡
○その他
成就院三重塔 【埼玉県指定建造物】
埼玉県指定建造物。1729(享保14)年に建立された三重塔です。
高津家住宅主屋 【国登録有形文化財】
主屋は江戸時代末期の建築。養蚕中2階造りの豪農の住居です。
高津家住宅長屋門 【国登録有形文化財】
1859(安政6)年築。このほか、江戸時代後期築の土蔵などが残ります。
旧・忍貯金銀行(現・武蔵野銀行行田支店) 【国登録有形文化財】
1934(昭和9)年築。行田市駅近くに残る戦前の銀行建築です。