鳥取城〜鳥取県鳥取市〜


 鳥取城は1545(天文14)年頃、山名誠通(のぶみち)が天神山城の出城として久松(きゅうしょう)山に築城したのが始まり。

 1573(天正元)年には山名豊国が本城として整備し、ほどなく毛利氏の傘下となります。ところが、1580(天正8)年に彼は羽柴秀吉に調略され、鳥取城には毛利一族の吉川経家が派遣。そこに秀吉軍が包囲を行い、兵糧攻めによる飢餓状態に陥ってしまいます。結局、吉川経家が切腹することで城兵の命を助けることになり鳥取城は開城し、秀吉配下の宮部継潤が城主となりました。

 関ヶ原の戦い後、西軍に味方した宮部氏は改易され、池田長吉(有名な池田輝政の弟)が城主に。現在の鳥取城の基礎を造り、明治維新まで池田氏が鳥取城主となっています(ただし、長吉の子孫は別の場所に移封され、岡山城主だった池田光仲の子孫が代々鳥取藩を治めています)。

 さて、鳥取城は山上に本丸、山麓最上部に天球丸、次いで二の丸、三の丸という構造。山上の天守は1692(元禄5)年に焼失して以後、再建されていません。そのため、上写真の石垣の中で特に目立っている部分の上に建てられた二の丸三階櫓が、天守代用とされました。

 明治維新後、殆どの建物破却されましたが、建物が整然と山麓に並んでいた往時の姿は威容を誇っていたようです。近年、復元整備が急速に進んでおり、2021(令和3)年には中ノ御門表門(大手門)が復元されました。

 また、二の丸の下に広がる丸の内には、1907(明治40)年に皇太子(後の大正天皇)が山陰に行幸した際に、その宿舎として池田家が二の丸の下に建築した仁風閣が残っています。こちらについても、併せてご紹介しましょう。
(撮影:裏辺金好&リン)

○場所



〇鳥取城の風景


鳥取城山麓の平面図


鳥取城絵図



擬宝珠橋と中ノ御門表門(大手門)(撮影:リン)
擬宝珠橋は2018(平成30)年、中ノ御門表門は2021(令和3)年復元。虎口を大きく広げた桝形石垣の幅いっぱいに高麗門を構え、左右の土塀を門の屋根と同じ高さまで立ち上げているのが特徴です。


復元前の中ノ御門表門(大手門)


中ノ御門表門(大手門)(撮影:リン)
因幡鳥取藩の初代・池田光仲が徳川家康のひ孫にあたり、さらに1817(文化14)年には徳川家斉の十二男である池田斉衆(なりひろ)を養子として迎えたことから、徳川家の家紋を用いた「葵紋瓦」の使用が許されていました。出土品を元に復元されています。


三の丸跡
現在は鳥取県立鳥取西高校の敷地となっています。


二の丸(左)と天球丸(奥)


表御門跡 (撮影:リン)


天球丸跡 (撮影:リン)
全国で唯一、角を持たない球面の巻石垣を持ちます。これは石垣の崩落を防ぐことを目的に、江戸時代の終わり頃に築き足されたもので、2017(平成19)年に復元されました。

二の丸菱櫓跡


中仕切門


北の御門跡
大手御門と並ぶ鳥取城への出入り口


内堀
奥が大手御門跡

丸の内
奥の洋館は仁風閣。これについては後述します。


丸の内から見た二の丸


二の丸三階櫓跡
山上の天守が焼失した後に天守代用となった櫓です。


二の丸への道


二の丸三階櫓跡(右)


二の丸跡

二の丸三階櫓跡


二の丸三階櫓跡からの眺め
鳥取市中心部を一望できます。

二の丸菱櫓跡


山上の丸への道
綺麗に整備された山麓と異なり、なかなか険しい状態です。

山上の丸への道


山上の丸への道
大変恐縮ながら、今回の訪問は二合目まで。折を見て再訪したいと思います。

箕浦家武家門 【県民の建物 100選】
鳥取県庁向かい側に移築現存する武家屋敷の門。

仁風閣の風景


正面
仁風閣は、1907(明治40)年の建築で片山東熊が設計、橋本平蔵が監督を務めたもの。旧鳥取藩主池田仲博侯爵が、皇太子嘉仁親王(大正天皇)が山陰に行幸した際に、その宿舎として鳥取城扇御殿跡に建立したもの。フレンチルネッサンス様式の洋館です。


背面


背面
宝隆院庭園とセットで撮影。


宝隆院庭園
第11代藩主・池田慶栄の未亡人である宝隆院を慰めようと、池田慶徳が造った池泉回遊式の日本庭園。


1階:御道具置場


1階:随員控所


1階:螺旋階段


2階:御座所


2階:御寝室

2階:御物置


2階:御厠


2階:「仁風閣」の額
明治40年の皇太子殿下の山陰行幸に随行し、「仁風閣」と命名した東郷平八郎による書。


2階:侍従武官


2階:謁見所
この日は結婚式場として使われていました。


2階:御食堂
展示されている椅子は、皇太子殿下が御食事の際に使用した当時のもの。

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