赤羽駅の西口から外に出ると、大規模な商業施設群と住宅地が見えます。
かつては、小さな商店や旅館が並ぶ閑古な佇まいでしたが、現在となっては見る影もなく、非常に長い時間をかけて計画されている再開発は平成17年も終わろうかという現在も続いています。
さて、西口を出で直ぐに左へ行くと、住宅・商業複合施設のアピレと大規模小売店舗の間に、小狭な自動車道路があり、東京の道にしては歩道もなく、車の相互通行も危ういこの道は、旧岩淵街道という古くから存在する交通路で、ここを少し進むと、かつては二件の古い旅籠が並んでいました。そして、旅籠と旅籠の間に小径があり、小さな地蔵尊が目印となっていましたが、残念ながら今はありません。その小径を行くと、急な階段にぶつかります。それが静勝寺こと、稲付城趾です。
稲付城の起源は文明年間(1469〜87)頃、太田道灌によって築城されたと言われています。
交通の要所地であり、江戸城と岩付城・河越城を結ぶ要地の備城であった模様。城自体、連なる台地から突き出た場所に設置され、当時の周辺状況を考察すると、清水川(現在は地下を流れている)、荒川、亀ヶ池(現在はただの水たまり)を要衝としたなかなかの備を有する施設だったと思われます。
道灌の死後、孫の資高が居城し、その子、康資の頃には後北条家の家臣として岩淵郷5ヶ村を所領し、稲付城もそれに併せて、戦国の山城として、何度と無く改修が行われた様です。そして、後北条氏が滅亡した後も、稲付城は城こそ廃城となっていたが、寺社寄進されていた為、私地として太田家の手元に残っていました。そこで明暦元年、浜松藩主(3万5千石)となっていた子孫の太田資宗により静勝寺として整備され(堂社や道灌堂、等が建立・寄贈される)、太田家の菩提寺となり、今に至っています。
(写真&解説:岳飛@美鈴ちん)