2007年2月3日・4日 名古屋・岡崎などで戦国時代の史跡巡り


 職場の先輩に誘われ、車で愛知県の名所旧跡を旅行してまいりました。さすがは車と言うべきか、こまめに色々なところに足を伸ばせるのは本当に有難い。まずは早朝から小牧・長久手の戦い(羽柴秀吉VS徳川家康)関連の跡地を巡ります。こちらは、羽柴方の池田勝入斎(恒興)が戦死した場所。

 それからこちらは、徳川家康が布陣した色金山。そして、家康が腰かけたと伝わる石です。

 そのほかにも色々と見ましたが、続いて名古屋市内に移動すると、ガイドウェイバスに遭遇。
 名古屋でしか味わえない、新交通システムであり、これは一度見ておかなければいけません。というわけで、砂田橋駅に行き、その走行する様子をチェック。やってくるのは、外観的には普通のバスなのですが、ここはあくまで「駅」。

 このように専用の補助輪によって走行します。ガイドウェイ区間を過ぎると、通常のバスとして走行するため、鉄道とバスの長所を組み合わせた優れものです。・・・ただ、これだけ大規模な施設だと建設費がかかりますし、バス1台分でOKな輸送量だと、収入も少ないわけで、これ以上普及していないところを見ると、なかなか夢の公共交通とは言い辛いようです。

 それからこちらは徳川美術館。

 徳川美術館の南にある、建中寺。写真の三門は1652(慶安5)年築。このほか、寺の殆どの建物が江戸時代のもの。
 物凄い見ごたえがあります。

 それから西に行くと、平成17年に付近から移築され、修復なった旧川上貞奴邸。

 さらに少しだけ西に歩きますと、白壁・主税・榎木町町並み保存地区。

 さらに少しだけ西に歩きますと、重要文化財「旧名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所庁舎」。現在は名古屋市市政資料館として活用されているもので、1922(大正11)年築。いや、これは本当に素晴らしい。

 そして今度は清須市に移動し、織田信長が本拠としていた清洲城へ。現在、その跡地の対岸に復興天守閣が建っています。雰囲気は悪くはないですけど、完全なニセモノ。紛らわしいことこの上ない。

 引き続き、桶狭間の戦いに関連する史跡を巡り、また名古屋市に戻ります。
 こちらは鳴海城跡。今川方の岡部元信が立てこもった城ですが、桶狭間の合戦の際、織田軍は鳴海城の脇を通過しているんですねえ。一体のこの城、何をしていたのやら。守るだけで精一杯だったのでしょうか。

 こちら、桶狭間古戦場跡。名古屋市緑区と豊明市の2ヶ所があるのですが、こちらは豊明市の方です(なお、両方とも行きました)。 明治9年に建てられた、今川義元の墓もあります。 ちなみに、2つの推定地は直線距離で1kmほどであり、どっちが正しいと言うよりも、戦いの舞台はそのぐらいの範囲だったのでは?とも思います。

 それから、旧東海道沿いに尾張藩が造った有松の街並みを見学。これはなかなか素晴らしい。名古屋鉄道の有松駅の直ぐ南に位置しておきながら、大規模な開発も行われず、こうした古い街並みが残ったのは奇跡としか言いようがない。

 この日はトドメとして沓掛城跡も見学。ここは、桶狭間の戦いの前夜に今川義元が宿泊した城。合戦のあと、織田信長が占領し、さらに関ヶ原の戦いの後に廃城となりました。

 翌日は浜松市に宿泊しておきながら、また愛知県に戻って、徳川家康が生まれた岡崎城から見学。

 さらに、岡崎城の西にある八丁味噌の製造地であるカクキュウこと、合資会社「八丁味噌」の工房を見学。NHK朝のテレビ小説「純情きらり」のロケ地でもあります。

 それから国道1号線沿いにある国重要文化財「岡崎市郷土館」を外から見学。1913(大正2)年に額田郡公会堂として建築されたものです。

 さらに、今度は愛知県豊川市へ。まずはこちら、現在の大河ドラマ「風林火山」にも登場した、山本勘助の養父、大林勘左衛門貞次の屋敷跡。今はただの「お客様専用駐車場」となっています。

 そこから東に行きますと、今川義元の胴塚が。首をとられた義元の遺体を家臣がここまで運んできて埋めたそうです。

 さらに再び西に少し戻ると、山本勘助の遺髪を埋めたといわれる場所があります。

 さて、豊川市に来たのであれば豊川稲荷ははずせない。豊川稲荷とは妙厳寺の境内にある、「豊川枳尼真天」の通称のこと。そして、この妙厳寺も古い建物がゴロゴロ。例えば、こちらの山門は今川義元が寄進したものだとか。

 本堂は意外に新しく、1930(昭和5)年築。それでも、その大きさには圧倒されますし、完成まで5年の歳月がかかたっとか。

 さらに、豊川稲荷から東、駅を挟んで反対側にあるのが三明寺。三重塔は国重要文化財です。また、本堂は愛知県指定文化財と、こちらも見所抜群。

 そして今度は、有名な長篠の戦の舞台へ。
 こちらは武田勝頼の猛攻を辛くも防いだ、長篠城跡。

 こちらは、織田信長・徳川家康連合軍が作った柵で、ここから鉄砲を撃ちまくり、写真に見える山に陣を構え、出撃してくる武田の軍勢を打ち破ったといわれています。

 別角度から・・・。

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