2009年6月20日 東海道蒲原宿・由比宿・興津宿を行く


 本日は久しぶりに旧東海道宿場町めぐりを実施。実は金曜まで飲み会3日連続という、酒が苦手な私には信じられない事態で、少々お疲れ気味ではありますが・・・。
 何とか体に鞭打って、さらに酷使してまいりました。さて、まずはJR東日本とJR東海の境界である熱海駅まで。

 未だに熱海は乗り換えの合間を使って駅前に出るのみ。保存されている熱海鉄道7号蒸気機関車(準鉄道記念物)を撮影します。

 こちらは東急から譲渡された伊豆急行8000系。こうやって、少しでも編成が長いのは東急時代を想起させてくれます。

 東海道線の211系が方向幕をクルクルと回転。新宿行きなんてのも出てまいりました。

 さて、それではJR東海311系電車に乗って出かけましょう。ここからが本編スタートです。

 まず降り立ったのが新蒲原駅。東海道蒲原宿の最寄り駅は、お隣の「蒲原駅」ではなくて、こちらの「新蒲原駅」であることに要注意。駅前には、なんと漁船が保存されています。これは、「さくらえび漁100年」を記念して、モニュメントとして1994(平成6)年に設置されたもの。まさか、駅前でこういうものを見るとは・・・。

 東海道蒲原宿は、鉄道が出来た当初は近くに駅が設置された無かったことが幸いしたようで、いまだ古い街並みが多少残ってます。こちらは「なまこ壁」が美しい佐藤家住宅。元は「佐野屋」という商家だったそうです。蒲原宿には、このような「塗り家造り(ぬりやづくり)」という防火に優れた建物があるのが特徴です。土蔵造りほどは防火機能は無いものの、これでも十分な効果はあり、贅沢普請と言われたとか。

 黒塀が印象的な蒲原宿本陣(西本陣/平岡本陣)跡。さすがに当時の建物では無いようですが、和風と洋風を組み合わせた建築は、もしかすると明治の建築かもしれませんね。ちなみに、未だ住居として現役のため非公開。中が見られないのはちょっと残念ですが、こうやって昔の建物が現役であるということが、一番素敵なことではないかと思います。

 蒲原宿最大の見所がコチラ。1914(大正3)年に自宅(江戸末期〜明治の建築か)を洋風に改造して出来上がった旧五十嵐歯科医院(国登録有形文化財)。1918(大正7)年頃に西側部分、次いで1940(昭和15)年頃に東側部分を増築して現在の姿になりました。明治の元勲田中光顕伯爵も患者さんとしてやってきていたそうです。

 1階は主に五十嵐家のプライベートな空間。欄間には富士山の風景などが彫られていて、必見です。

 2階は診療室。ガラスが多いため、非常に部屋が明るいのが印象的です。

 こちらは吉田邸(国登録有形文化財)。味噌や醤油の醸造を営む商家で、写真左半分は1854(安政元)年の大地震の直後に再建されたもの。通り土間1列型と呼ばれる典型的な町屋建築の構造です。

 それでは引き続きまして、今度は由比宿に向かうとしましょう。

 由比宿本陣の最寄り駅は、由比駅なのか蒲原駅なのか微妙なところ。要するに、どちらからも離れていまして歩くのが多少大変。
 さて、由比は漁港から水揚げされる「桜えび」が特産品。かつての東海道も、桜えび通りと名づけられてまして・・・。

 暑い中、延々と旧由比宿の名残を感じながらを歩いていきますと洋風建築が。これは1925(大正14)年に建てられた旧庚子銀行本店(現清水銀行由比支店本町特別出張所)。現在でも銀行として現役なのが素晴らしい。その一方、今の感覚ではバリアフリーとは全く無縁の入り口の階段が面白いですね。4本のイオニア式の柱が、なんとも力強い印象です。

 そして近くにはコミカルに表現された、弥次さん喜多さんの人形が。

 由比宿本陣。当時の建物はありませんが、由比本陣公園として整備。表門や物見櫓が復元され、非常に見ごたえがあります。また、公園内には東海道広重美術館があり、浮世絵師・歌川広重の作品が展示。浮世絵についての紹介も詳しく、学習には最適です。それから向かい側には、4代将軍の徳川家綱の時代に幕府転覆を狙った由比正雪の生家があり、江戸時代より十八代続く染め物屋として現役です。

 本陣付近から次の興津宿方面を見ます。

 続いて東海道沿いにある由比漁港へ。出発前に職場の先輩より「桜えびのモニュメントを見ておくべし」とのこと。
 何とまあ・・・これは・・・。

 漁港の様子。

 漁港では桜えびを食べることが出来まして、桜えびのかき揚げ丼を注文。サクサクとした食感で、大変に美味。ちなみに東海道沿いにも、桜えびを使った料理を提供する飲食店が何軒もあります。そちらは多少お高いですが、どんな味だったのか気になりますね。

 先ほど前では由比駅から東側に歩きましたが、今度は西側に向けて東海道を進みます。由比宿と興津宿の間にも、古い街並みを残す集落があり、こちらの小池邸もその1つで一般公開されています。

 さすがにそのまま次の興津宿まで歩く体力と時間は無いので(仮に歩くとしたら峠越え・・・)、今度も安易に電車で興津駅へ。旧興津宿は道路拡幅等で宿場町の面影はありませんが、かつての屋号を家の前に設置するなど、雰囲気作りに取り組んでいたのは評価できます。で・・・そこそこに切り上げて線路沿いに西に向けて進みます。
 途中、EF66牽引の貨物列車がやってきたので撮影。あまり貨物列車を撮影する機会に恵まれないので、これはいい記録に。

 目指したのは、まるで城のような雰囲気の清見寺。臨済宗の寺院で、奈良時代には清見関という関所が設置され、仏堂が建立されたのが始まり。平安時代に天台宗の寺院となり、鎌倉時代に臨済宗の寺院として再興。そして足利尊氏や今川氏の庇護を受けて発展。江戸時代には朝鮮通信使や琉球使の接待にも使われた史跡で、そして今も殆どの建物が江戸時代からのもので、必見です。

 清見寺庭園は国の名勝に指定されており、大変美しいもの。

 こちらは徳川家康が今川家人質時代に太原雪斎に師事して勉強したという部屋。江戸時代に方丈が改築された際も、この部屋は流用したそうで、当時の雰囲気を今に伝えています。

 こちらは天明年間(1781〜89)年に作られた五百羅漢。

 その近くには明治・大正の公家、政治家である西園寺公望の別荘「坐漁荘」(ざぎょそう)が、当時あった場所に2004(平成16)年に復元されています。元々あった建物は1970(昭和45)年に愛知県犬山市の博物館明治村に移築。それから30年過ぎると、人々の意識も変わるという好例で、今になると地元のシンボルとして「やっぱり欲しい」というわけですね。

 元々の建物は1920(大正9)年に建てられた純和風の家屋でしたが、1929(昭和4)年に洋間と洋風便器の置かれた便所等が増築されています。建物の名前である「坐漁荘」とは、”なにもせず、のんびり坐って魚をとって過ごす”という意味ですが、実際には多くの政治家や有力者の訪問を受けていたそうで、その応接に対応せざるを得ず、増築に至ったのかもしれませんね。

 ちなみに、こちらは明治村に移築されている本物。全く同じ建物が2つあるというのは面白い・・・(笑)。しかし、やはり砂利道の方が昔らしい雰囲気をより一層際立たせてくれますね。

 こうして興津を堪能し、興津駅へ戻ります。で・・・これで終わりかと思いきや、沼津駅から1つ西隣の原駅で下車。

 東海道は箱根、三島、沼津、原、吉原、蒲原、由比、興津、江尻、府中と宿場町が並び、今紹介した宿場町の中では残るは原宿のみ未訪問となりました。1つだけ残すのも勿体無いので、かなり疲労気味ではありますが・・・行って来ました。ただ、原宿はこれといって古い建物が残っているわけではありません。

 強いてあげれば、江戸時代には高札場がおかれた浅間神社の社殿は、1938(昭和13)年の建築。江戸時代には、大体こんな様な雰囲気で宿場町を訪れる人に親しまれたことでしょう。

 というわけで今回の東海道宿場町歩きは終了。途中の三島駅で伊豆箱根鉄道の車両を撮影。

 さらに小田原駅で小田急に乗り換え。ようやく箱根登山鉄道色に塗られた1000形を撮影。賛否両論ありますが、個人的には非常に好きな部類のカラーリング。なにより、ステンレス車体がラッピング等で、ここまで明るくなるんですから・・・。ちなみに、箱根登山鉄道は小田急電鉄の実質的な100%孫会社です(正確には小田急電鉄の下に、持ち株会社として小田急箱根ホールディングスが入り、小田急の箱根観光戦略を統括しています)。

 さすがに疲労がピークだったので、たまたま次の列車が特急「はこね」だったので、600円払って町田まで乗車することに。何と、やってきたのはVSEでした。いつもは見ているだけの存在であっただけに、これはラッキーでした。看板特急なだけに、車体の純白は常に維持されているようで、非常に美しい。JR東日本や西日本は車両数が多いので大変かもしれませんが、黒ずんだ特急が多いのは、どうにかならないでしょうか。

 車内の様子。天井が高く、ライト位置が工夫されているのが非常に印象的でした。というわけで、写真を厳選しても40枚近くになった、この旅行。さてさて・・・実際に記事としてまとめるのはいつの日になることやら・・・。そして、来週はどうしましょうか・・・。

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