2010年6月19日 奈良市柳生&明日香村旅行


 ゼニガタ所員に車を運転してもらい、ネオン所員と3人で奈良県に行ってまいりました。
 これだけ旅行しておきながら、意外にも石舞台古墳などで有名な明日香村に行ったことが無く、この機会にしっかりと見ることに。 しかし、欲張りな私のため、午前中は奈良県北東部に位置する奈良市柳生の散策、さらに午後4時40分頃には特急「まほろば」を関西本線沿線(法隆寺駅付近)で撮影するという、超過密なハードスケジュール。昼飯?何それ美味しいの?という、最も私らしい旅行でございます。
 挙句に・・・まだ京都府を走行中に、上写真の五重塔を見つけてしまい、寄り道。これは京都府木津川市加茂町にある海住山寺(かいじゅうせんじ)のもので、国宝に指定。なんと1214(建保2)年、つまり鎌倉時代初期の建築だそうです。


優美な姿に素晴らしい感動しましたが、こんな山の上にあり、しかも狭い道を登らないといけないので、行くまでが一苦労。ということで、このあとのハードスケジュールが、さらにハードスケジュールとなりました。いや、それだけの価値はありましたぜ。


続いて剣豪で知られる柳生家が治めた柳生に行き、まずは柳生陣屋跡を見学。しかし、ここに来るまでが凄い状態で、人家の無い暗い山道をずっと登ると、突如開ける柳生の集落!下界と隔絶されたような環境で、驚きでございました。


旧柳生藩家老屋敷(小山田家)。


ただの武家屋敷と思うこと無かれ、こんな石垣の上に建っております。


さて、来た道を引き返しますと、こんな看板が・・・。
私の胸に手を当てて考えて見ますと、たしかに物欲には正直に生きている真人間です。てなわけで資格は十分にありそう。それにしても、こういうノリは関西ですね。ゼニガタさんも「こんなのは当たり前のレベル」みたいな事を仰います。


続いて訪問したのが、柳生花しょうぶ園。偶然にも見ごろを迎えておりました。1万uの敷地に80万株も植えられているそうです。


なかなかの美しい景色に大満足。残念ながら、じっくり見ている暇は無いわけですが、それなりに撮影はいたしました。


・・・??


続いて坂道を登って芳徳禅寺へ。寛永15年、柳生宗矩が、亡父である柳生石舟斎供養のために、友人である沢庵禅師の開基によって創建したもので、以後柳生家代々の菩提寺となりました。

 お寺の背後に回ると、柳生宗矩の墓石を中央とした柳生家墓地があります。夜に来るとちょっと怖そう・・・。
 さて時間は12時前。お昼時・・・ではありますが、その1分1秒が勿体無い(・・・いや、本当は食事をきちんと取りたかったんですよ。車の中で何度もラーメンと叫んでいましたし・・・)。引き続きまして一気に南下し、明日香村へ向かいます。


 途中、長谷寺の前を通過します。長谷寺というと、神奈川県民としては鎌倉の長谷寺を想像してしまいますが、こちらの長谷寺は、奈良県桜井市にある真言宗豊山派 (ぶざんは)総本山。西国三十三箇所観音霊場の第八番札所として崇敬を集めており、その門前町はこのように古い街並みを形成しております。
 長谷寺は本堂が国宝に指定されているそうで、激しく見たくて仕方が無かったですが、これ以上の寄り道はNG。やむなく通過しました。

 そして何度かの昼飯のチャンスを見事に逃しつつ、明日香村に到着。最初に向かったのが岡寺です。真言宗豊山派の寺院で、西国三十三ヶ所観音霊場の第七番札所です。また日本最初やくよけ霊場としても知られているそうです。ちなみに、岡寺というのは地名による通称で、正式には龍蓋寺(りゅうがいじ)というそうで。
 これといった事前情報も無く、とりあえず「有名らしい」という理由だけで入ってみたのですが、まず仁王門から完全に私のハートをズキューン。1612(慶長17)年の建立で、国の重要文化財に指定されています。

開山堂(左)と本堂(右)。両方とも江戸時代の建築で、特に本堂は1805(文化2)年の上棟ながらも、全て完成するには30年もかかったという大きな木造建築。奈良県指定文化財に指定されています。いや・・・本当にいい建築を見ました。


続いて蘇我馬子の墓ともいわれる石舞台古墳を見学。奈良観光の代表みたいな存在ですが、これだけ旅行しているにもかかわらず、今回が初めての見学。

ちなみに、内部も入ることが出来るんですね。知りませんでした。

続いて高松塚古墳へ向かおうとすると、見事な棚田が広がっていたので思わず撮影(同じことを考えている人は多数でした)。ちなみに、ここに限らず奈良県内は棚田が非常に多かったり、山間の場所でも、少しでもスペースがあると田んぼになっていたり・・・。農作業はかなり大変じゃないかと推察されますが、昔ながらの農業の風景が広がっていました。秋に来るとまた風景がいいんでしょうね。

そして高松塚古墳に到着。ご覧のとおり、2段築成の円墳です。何かと保存問題で大きく取り上げられた石室内の壁画は、隣接する壁画館で複製を見ることができました。そのままの状態を複製したもの、カビを取った状態で複製したものなどがあり、レプリカならではの面白い展示でした。


さらに、高松塚と同じく壁画が発見されるも、やはり劣化の問題で慎重に保存、修復が進められているキトラ古墳へ。車で行くとあっという間です。現地で修復がされているため、今はこのような感じ・・・。


横から見るとこんな感じです。


それから高松塚古墳から石舞台古墳への途中には、天武・持統天皇陵があります。夫婦で天皇を務め、同じ陵墓に葬られているというのは興味深いですね。


さらに進むと、時間が無いので外観のみの撮影にしましたが橘寺が見えてきます。聖徳太子が、自身が生まれた場所に創建したといわれる寺です。今でも十分に立派ですが、創建時は四天王寺式の伽藍配置を持つ、壮大な規模だったそうで。

 こちらは伝飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)跡。飛鳥京は、天皇によって皇居の場所が色々と変遷しますが、これは7世紀中頃に皇極天皇が営んだ皇居。645年、蘇我入鹿暗殺の舞台となったのも、この場所です。
 発掘すべき対象地域が広すぎるため、全容には謎の多い飛鳥京ですが、ここも下層部にまだ遺跡が眠っているそうで、とのような変遷をたどったのか、想像するだけでもロマンがありますね。

飛鳥(明日香)の地は、様々な人為的に加工された謎の石が多いことでも知られています。続いてみたのが、この酒船石。長さ5.5m、幅2.3m、厚さ1mの花崗岩で出来ています。酒を絞るものだとか、庭園の設備だとか、色々な説があります。
 その直ぐ近くには酒船石遺跡があります。亀形石造物や小判型石造物が見つかっており、斉明天皇(位655〜661年、先ほどの皇極天皇と同一人物)の時代から平安時代に廃絶されるまで、約250年にわたって使用されたことが判明しています。
 ・・・問題は何に使用したか、ですが。何らかの祭祀の場なのか、それとも庭園か?


続いて近くにある飛鳥寺・・・は、時間が無いので外観だけ撮影。日本最古の寺院である法興寺という、蘇我氏の氏寺の後身。ここも往時は、大伽藍を誇っていたそうです。

その門前町は、これまた古い街並みが残っていて非常に良い風情です。


さらに近くには水落遺跡というのがあります。これは斉明天皇の時代、中大兄皇子が水時計を据えた時計台の建物を造った場所と考えられています。


この脇が石神遺跡。今では田んぼですが、斉明天皇の時代に様々な建物があった場所だそうで、饗宴施設の場ではないかと考えられています。こうやって考えると、斉明天皇の時代の板蓋宮から飛鳥寺一体は、水時計というハイテク施設から、エンターテインメント施設まで備えた、大都会だったんでしょうね。

さて今回の旅行の目的は、臨時特急「まほろば」の撮影。どこで撮影しようか・・・ということで、法隆寺近くに設定します。が、そこへ見えてきたのが藤原京跡。明日香から殆ど離れていないんですね。差し迫る時間を無視して、しばし見学・・・。

 途中、渋滞に巻き込まれて顔面蒼白になりながらも、何とか列車の時間には間に合います。そんなわけで、法隆寺〜大和小泉間で特急「まほろば」を撮影。実は国鉄色の381系を撮影するのは初めてですね。

 所長パワーというべきか、今回は梅雨の真っ只中で雨のはずが、ここまで曇り空という有り難い状態。しかも、この「まほろば」通過時は晴れてくれます。そして・・・この直後に大雨となりまして、危ない状態でした。まして、1本先の踏切では、対向列車と被ってしまう状態。とにかく、全てが上手くいった1枚でした。


てなわけで、途中に車中より見ました大和郡山城は大雨の中で撮影。

 ネオンさんの希望もあり、トドメに薬師寺まで見ます(外観だけですけど)。ここからの風景は、個人的にイチオシなので、是非ご紹介したいものでした。いやはや・・・1日でよくこれだけ回ったものです。昼飯抜きの史跡めぐりだらけ、最も私らしい旅行に個人的には大満足。ここのところ鉄分が満載だっただけに、木と土のぬくもりを沢山感じてまいりました(笑)。
 では、夕飯を・・・と思ってみたところ、既に時間は午後6時を過ぎております。奈良は意外と東京に帰るには遠く、うかうかしていると今日中に戻れません。そんなわけで、近鉄の大和西大寺駅に向かいますが、開かずの踏切でまったく先に進みません。
 ゼニガタさん、ショートカットを図ろうとして失敗し、事態は余計に悪化。そこで、新大宮駅に向かうという荒業を使い、ここで一同は解散となりました。お二方、どうも有り難うございました。あとは電車の中からは見ましたが、平城宮の大極殿行きたいですね。

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