2011年2月2日・3日 目指せ軍艦島!福岡・佐賀・長崎寄り道だらけの旅


  さて、長崎の朝。本日は主目的である軍艦島へ上陸します。 その前に、早朝からちょっと出島を見学することに。久しぶりに長崎電気軌道の路面電車にも乗車しました。

7年ぶりの出島は、復元がさらに進んでいます。こちらは水門。

南側護岸石垣が復元され、従来は道路と一体化していた出島の範囲が明確に区分されています。

出島全景。

こちらは出島橋。現役の鉄製道路橋としては日本最古で、1890(明治23)年の完成。元々は中島川の河口に新川口橋として架けられたもので、1910(明治43)年に老朽化した先代の出島橋に変わって、ここに移設されました。土木学会の選奨土木遺産に選定されています。

さて、出島と目と鼻の先にある長崎港ターミナルに到着。なかなか奇抜なデザインで、1995年の完成。設計は高松伸/高松伸建築設計事務所、三菱地所とのこと。

こちらの船で軍艦島へ向かうのですが・・・。

なぜか中国のジャンク船が停泊していました。 調べてみると、これは長崎市が保有する飛帆(フェイファン)。中国明末清初期に福建地方で建造されていた木造船「大福船」の船型を復元したもので、長崎市の友好都市である福建省福州市の造船場で1989年に建造されました。

ちなみに帆船と言えば、毎年4月末に帆船祭りを開催し、飛帆はもちろん、世界からも様々な帆船が集結するそうです。・・・これは気になります。7年間行かなかった長崎ですが、今回の旅行では殆ど観光しませんでしたので、また行くとしましょうか。

さて、長崎港をいよいよ出航します。約50分の船旅ですが、行く先々に様々な見所があり飽きません。早速、海上自衛隊のイージス艦「あしがら」を間近で撮影できました。2008年3月の就役で、あたご型の2番艦です。

そして三菱重工業長崎造船所にて、完成間近の「あきづき」が見えました。名前としては2代目で、2012年より就役する予定です。ちなみに、「あきづき型」1番艦。最新の多機能レーダーを備え、対空戦闘機能が強化されているのが特徴です。

そのほか、建造中の艦船が見えます。「あきづき」2番艦になるのか、全く異なる船になるのか・・・??

しばらくすると、NTTワールドエンジニアリングマリンが保有する敷設船「すばる」が見えてきました。同社ホームページによると、日本領海内の海底ケーブルの工事・保守に加え、 海外の業務も行うとのこと。

そして斜張橋である「女神大橋」の下をくぐりました。2005(平成17)年に完成したもので、長崎市の新しい観光スポットにもなっているそうです。

続いて神ノ島教会が見えてきました。1897(明治30)年に建てられたもので、古い教会ですが白亜の美しい建造物です。この場所、1967(昭和42)年まで陸続きでしたが、それまでは小さな島であり、隠れキリシタンが潜伏するのに良好な環境だったそうです。

さらに伊王島にさしかかりますと、また教会が見えてきました。こちらは沖之島教会(天主堂)といい、現在の建物は1931(昭和6)年の建造だそうです。

そして船は高島にさしかかりました。 これから向かう軍艦島こと、端島(はしま)と同じく、炭鉱で栄えた場所。高島炭鉱は、あのグラバーが佐賀藩と共同で開発にあたった場所で、後に岩崎弥太郎率いる三菱によって本格的に採掘が行われました。

島には溢れるばかりの人で大きく賑わいましたが、他の炭鉱と同じく石油エネルギーへの移行などから採掘量が減少。1986年に高島炭鉱は閉山となり、当時の高島町も人口が急激に減少し、一時は面積・人口ともに全国最小になったとか。 平成の大合併で長崎市となり、現在は観光の島として再生中です。軍艦島とともに炭鉱の歴史を学べる場所として、注目を集めるかもしれませんね。

さあ、高島を過ぎるといよいよ軍艦島が見えてきました。軍艦島というのは通称で、先ほども少し名前を出しましたが、正式には端島(はしま)。三菱による海底炭鉱として栄え、大正時代頃から特徴的な外観より、当時建造中(で軍縮の影響で修好しなかった)戦艦「土佐」に似ているとして、軍艦島とよばれるようになりました。

人口の最盛期は1960(昭和35)年で、5,267人の人口がおり、人口密度は83,600 人/km2と世界一、なんと当時の東京23区の9倍以上だったそうです。そして、エネルギーが石油に移行するに従い衰退し、1974(昭和49)年に閉山し、全ての島民が島を離れて、無人島になりました。

それから40年ほど荒廃するに任せられる一方、近年の産業遺産や廃墟ブームの影響で一気に人気が加速。整備が進められて2009年より、指定区域のみ観光客が上陸できるようになりました。

正面は70号棟こと、端島小中学校。島で唯一のエレベーターがありましたが、給食運搬用でした。奥の東西の建物は1945年に建てられた65号棟「鉱員住宅」。

長崎港で展示されている軍艦島の模型より。当時はこのような姿だったようです。

さて、いよいよ上陸して端島小中学校方向を撮影します。

こちらは逆方向を撮影。第二竪坑坑口桟橋跡、すなわち海底炭鉱への入り口ですが、崩壊しています。

島の高台にある幹部用の職員住宅。

こちらも第二竪坑坑口桟橋跡周辺。

レンガ造りの総合事務所と、第二竪坑坑口桟橋跡。 上に見えるのは貯水タンク。島で水は非常に貴重でした。白いのは灯台で、これは平成になってから造られた新しいものです。

31号アパート(左)と30号アパート(右)。 30号アパートは、1916(大正5)年に建てられた日本最古の7階建て鉄筋コンクリート造りの高層アパートで、グラバーハウスと呼ばれました。地下には売店、地階には共同浴場、1階には郵便局や理髪店もありました。

この付近の模型。

ちなみに天候も非常に良く、トンビが飛んでいたり・・・。

観光客向けの宣伝だったのか、飛行船が飛んでいました。スヌーピーに萌え・・・。

上陸して見学できるのはこのぐらいで、船は一旦島を離れます。

そして反対側に回り込みます。確かに軍艦ですね。

この付近をアップで撮影。

住宅が建ち並んでいます。このあたりを散策してみたいのですが、さすがに崩壊の危険があるので観光客を入れるのは難しいですね・・・。

かつての姿はこんな感じだったそうです。

さて、長崎港に戻ってくると正午。今日は松浦鉄道の車両を撮影したいので、長崎の観光は省略ではありますが、以前に長崎に行った時には存在しなかった、長崎歴史文化博物館の外観を見学。

かつてこの場所にあった長崎奉行所立山役所の一部が復元されており、是非見ておきたかったのです。

そして、高速道路を経由し、JR大村線沿いを北上。途中、キハ66系や・・・。

全く想像もしていませんでした。家に帰ってから雑誌「鉄道ファン」のホームページで新登場を知りました、キハ200系のハウステンボス色に遭遇。キハ200系だと、この塗装はかなり似合いますね。こんなのがいるとは思わず、物凄く衝撃でした。

大村線をもっと撮影したいのも山々ではありますが、松浦鉄道佐々駅へ急ぎます。MR−600形を駅の北にある踏切で撮影。良いカラーリングですね。

そして車両基地の脇を通過するMR−600形をもう一度撮影します。

こちらは最近登場した別バージョンの塗装。

非常に派手なラッピング車もいました。

こちらはMR−100形。置き換えが進んでいるので、撮影は早めにせねば・・・。JRだと、同型のキハ120形がフル稼働中であるだけに、ちょっと不思議です。

というわけで佐々駅から1駅隣りにある、小浦駅の南で撮影しました。

そして佐々駅前に戻り、倉庫になっているMR−200形(300形?)を見ると、なんと行先表示が凄いことに。

それからMR−600形のもう1つの塗装を撮影し、ここを後にしました。 この後はマンホールをいくつか収集した後、佐賀県の武雄温泉へ向かいます。

この楼門が凄いんですね。1915(大正4)年、東京駅や日本銀行の設計でお馴染みの辰野金吾によるもので、国の重要文化財に指定されています。

新館も同じく、辰野金吾による設計。 入浴していきたいのは山々だったのですが、色々トラブルもあり帰りの飛行機の時間を考えると危険な状態。これにて観光は終了し、佐賀空港にリン所員に送ってもらいました。飛行機出発の20分前の到着。焦っても仕方が無いとはいえ、心臓バクバク状態・・・。 何はともあれ、リンさん有難うございました。

私は飛行機で寝て帰りますが、リンさんは引き続き広島県まで長距離ドライブ。どうもスミマセン。以上、福岡、佐賀、長崎寄り道の旅でした。 大変に得がたい経験も多く、非常に面白かったですが、やはり長崎で観光と撮り鉄をガッツリやりたかったのも正直なところ(7年も行かなかったくせに、何を今更ですが)。近いうちにまた行くしかないですね〜。

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