2012年10月6日〜8日 石川・富山・福井紀行

〇10月8日


さて、3日目は目標として北陸鉄道の廃線跡を色々と見ながら福井市の一乗谷遺跡まで行った上で帰還する予定で、なるべく早く金沢を出発したいところですが、やはり目の前に金沢城をはじめとする観光名所があるにもかかわらず、無視するというのは出来ませんでした。

というわけで金沢城を見て行きますが、兼六園と対を成す石川門側からではなく、旧石川県庁側から入ったため、いきなり玉泉丸跡の復元整備現場と出会いました。 明らかに北陸新幹線開業後の観光を見越して進められているわけですが、また1つ金沢城の魅力が増えると個人的には大歓迎です。また行かねば・・・。

こちらは三十間長屋。安政年間(1854〜1860年)の建築で、金沢城に残る江戸時代からの建物の1つで、国の重要文化財に指定されています。

そして、奥に菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓を臨むこのエリア、何やら工事が行われていると思ったら・・・。

なんと、橋爪門二の門・枡形土塀を復元するのだとか。こりゃ凄い!!

こちらは1848(嘉永元)年に建築された鶴丸倉庫。国の重要文化財に指定されています。

そして、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓を撮影したところ、素晴らしい青空!

素晴らしい、絶好の撮影条件でした。この時の感動は忘れられません。

さらに別角度から。

そして全く知らなかったのですが、河北門が2011(平成22)年に復元されていました。

なかなか立派な構えで、これもまた非常に感動しました。城はやっぱり、こうした門や櫓、そして塀が充実していると見栄えが全く違います。もちろん、石垣の美しさや組み方なども、特に重要なポイントでありますが。

さて、続いて向かい側にある兼六園へ。まずは、何となくの1枚。

ベタですが。しかし、2代前のコンデジで撮影した画像と比べると、美しさが格段に違いました。

兼六園は何度訪問しても魅力が色あせることが無いですね。

さらなる写真は、追々ホームページ上で紹介するとして、続いて金沢城・兼六園の周辺を散策していきます。

さて、兼六園を見た後は周辺を散策します。まあ、昔見たことのあるものばかりですが、さすが一眼レフで撮影しますと、写真の出来映えは大きく違うもので、これはこれで大満足。まずは、旧津田玄蕃邸(現、兼六園管理事務所)の外観を撮影します。 ここは、宝暦の大火(1759年)の後に再建された武家屋敷。

津田氏は室町時代の名門、斯波氏の後裔で1万石を領した前田家の重臣の家柄です。1870(明治3)年には、この屋敷に金沢医学館が開設され、2年後に金沢病院、1975(明治8)年に石川県金沢病院となり、金沢大学医学部の前身となりました。 元々は金沢城大手門前にありましたが、1923(大正12)年、兼六園に保存のために移築され、現在は管理事務所として使われています。内部はだいぶ改変を受けているようですが・・・。

旧陸軍第九師団司令部(左)と旧陸軍金沢偕行社(右/現、石川県庁舎石引分室) 軍関係の建物が数多く残る兼六園周辺ですが、こちらは1898(明治31)年築と非常に古い建物。

金澤陸軍兵器支廠の兵器庫3棟から成る、石川県立歴史博物館。国の重要文化財に指定されています。1909(明治42年)〜1914(大正3年)にかけて建てられました。

こちらは兼六園に隣接する成巽閣。1863(文久3)年、加賀藩第13代藩主の前田斉泰が母・真龍院(12代藩主の前田斉広夫人)の隠居所として建てたものです。

壮麗な内部は撮影禁止だったので、庭しかご紹介できませんが、非常に素晴らしい建築でした。1階と2階で雰囲気が全く違うのも何ともユニーク。

夜景は以前に紹介しました、1924(大正3)年築の旧石川県庁。

表と裏は全く異なる表情になっています。

それから旧制第四高等学校校舎(現、石川近代文学館)。1891(明治24)年築で、国の重要文化財に指定されています。

さらに長町武家屋敷跡を散策。一部に長屋門が残っており、往時の武家屋敷の面影を今に感じることが出来ます。

なかなか光線状態などもあって、パンフレットのような写真にはなりませんね。

こちらは高田家長屋門(市指定保存建造物)。

長屋門って何?という方のために、裏側も。はい、要するにこういう人が住居出来る構造になっているんですね。住まないまでも、門番の詰所だったり、作業所だったりすることもあります。

足軽屋敷高西家。加賀藩の足軽屋敷は、長屋形式ではなく、庭付き一戸建てであったことが特徴で、身分の低い足軽の家としては異例の構造でした。

ここからは初の撮影&訪問。 再び兼六園方向に戻って、旧石川県立金沢第二中学校(現・金沢くらしの博物館)を撮影&見学します。1899(明治32)年の建築で、石川県の有形文化財に指定。非常に立派な建物ですが、木が邪魔で全景が撮影できません・・・。

さらに、にし茶屋街と呼ばれる古い街並みを散策。金沢にはもう1つ、ひがし茶屋街と呼ばれる似たような界隈があるのですが、現存しているエリアとしては、にし茶屋街のほうが随分と小規模でした。

そして金沢市中心部のラストは、犀川大橋の撮影で〆。1924(大正13)年の建築で、国の重要文化財に指定されています。アニメ「花咲くいろは」の聖地の1つでもあったり。まあ、そんなアニメ設定を持ち出すまでも無く、これは非常に美しい橋で感動しました。

金沢市中心部を出た所長一行は、北陸鉄道石川線沿線に繰り出します。まずは、金沢市郊外にある四十万駅。これ、「しじま」と読みます。別に何かあるわけではないのですが、アニメ「花咲くいろは」の主人公の祖母(女将さん)&叔父の名字が、四十万という設定だったので・・・。

そして、石川線の終点である鶴来駅にやってきました。ええ、これも「花咲くいろは」の登場キャラクター「鶴来民子」の名字の由来というわけでして・・・。

それはそれとして、これまで石川線の車両を撮影したことが皆無だったので、一度撮影しておきたかった次第。運よく、東急と京王の中古車をセットで撮影できました。

7000系出発後は、7700系(もと京王3000系)単体で撮影します。

さて、駅舎内には北陸鉄道で使われた様々な鉄道部品が陳列されており、見応えがあります。が、その中に・・・。

オイ。公式でやってんのかよ、と。

さて、この鶴来町(現・白山市)は僅かながら古い町並みが残っています。酒造メーカーもあるようで、やはり紀行・風土が良いんだろうなと。

規模は大きくありませんが、落ち着いた雰囲気でとても素晴らしかったです。

お昼ごはんはこちらで。現在、「つるぎTKGY」(たまごかけごはんやき)というのを地域で売り出し中で、さっそく頂きました。

私が食べたのは、あんかけバージョン。色々バリエーションがあるようですが、基本的な味はチャーハンの一歩手前という感じで、それだけだと、あまり美味しく無さそうな表現で恐縮なのですが、チャーハンのようにこってりとしていないので、非常に食べやすいんです。 中華料理は美味しいですけど、ちょっと胃にもたれそうになりますからね。 つるぎTKGY、今後の動きに要注目です。北陸鉄道の利用促進にもなればなあ。

さて、鶴来駅から先へ向かいます。こちらの築堤、2009年11月に廃止された鶴来駅〜加賀一の宮駅間 (2.1km)のもの。正確には中鶴来〜加賀一の宮間の線路ですね。

先ほどの写真の左端が踏切跡だったので、こちらから鶴来駅方向を撮影すると、このとおり・・・。草で覆われてしまっています。架線は現役当時に近いのに、路盤はたった3年でこうなってしまうのか。

こちらは加賀一の宮駅方向。

そして加賀一の宮駅の裏手に出てきました。

ホーム跡・・・は、ご覧のとおり。凄いですねえ、近くに川があることからか、この地域はここまで草が生えやすいのか。

ここから先は、かつて金名線が延びていました。

そして駅舎を正面から撮影。今は庇(唐破風)の部分が、バス停の屋根になっているようですね。立派な駅なので、何とか今後も残って欲しいものです。

ちなみに、現役時代の加賀一の宮駅(リン所員撮影/2008年12月)

そして停車中の7000系。

さて、加賀一の宮駅のかつての乗客輸送の主要目的であった、白山比盗_社(しらやまひめじんじゃ)を参拝してみます。

いいですね〜、神社はこういう神聖な雰囲気の参道が素敵です。

外拝殿の様子。写真ではあまり人を写さないようにしましたが、そこそこ多くの人で賑わっていました。

さあ、引き続きまして北陸鉄道の保存車両目当てで石川県を南下していきます。その途中、何か廃線跡のような雰囲気を見つけたので寄り道をしたところ、かつての北陸鉄道能見線・灯台笹駅跡でした。これ、「とだしの」と読みます。

さらに能美市立博物館へ。ここには、北陸鉄道3760形(3761号)が保存されていました。上屋つきで、保存状態はすこぶる良好。

さらに、山中温泉ゆけむり健康村で保存されている「しらさぎ」を見学。これは、北陸鉄道加南線(大聖寺〜山中温泉)で昭和38年より運転を開始した日本初のアルミ車体の電車で、昭和46年に加南線が廃止になった後は、大井川鐵道で平成13年まで活躍していました。その後、ゆかりの地に里帰りして保存されています。 北陸鉄道は石川県内を縦横無尽に運転していたものの、今や軒並み廃止されてしまい、正直残る区間も微妙・・・な雰囲気。鉄道ファンとしては残念な限りです。 さて、引き続いて福井県内へ入ります。

山中温泉を抜け、永平寺を抜け、所長一行はゼニガタ所員の車で福井県福井市にある一乗谷朝倉氏遺跡へやってまいりました。色々寄り道をしていたがために時刻は既に16時と、日没までかなりギリギリですが・・・。 さて、この場所は戦国大名の朝倉氏の城下町跡。福井市街からは東南約10km、九頭竜川水系足羽川支流の一乗谷川の下流沿いの細長い谷あいに位置します。上図をご覧になっていただけると解りやすいですが、背後に一乗谷城がそびえ、山麓に朝倉氏の館、そして川向こうは城下町が広がっていました。 図面では現在整備されているところしか描かれていませんが、かつては川沿い全てに色々な建物があったようです。なお、この一乗谷は1573(天正元)年8月17日に織田信長の軍勢によって火を放たれ、灰燼に帰しました。

(↑復元された町並み。戦国時代の町並みを体験できるのは非常に珍しい) その後、朝倉氏から織田氏へ寝返った前波吉継(桂田長俊)が一乗谷を支配しますが、同じく朝倉氏から織田氏に寝返った富田長繁はこれに不満を持ち、桂田長俊に反感を持つ民衆を扇動して土一揆を起こさせ、殺害に成功します。しかし、その富田長繁も一揆側と対立し、一向宗の七里頼周による一向一揆への発展を招き、鎮圧する忙殺される中で味方に殺されてしまいました。 そして一揆を平定した織田信長は、重臣の柴田勝家に越前国を与えますが、柴田勝家は本拠地を一乗谷ではなく、現在の福井城近くに本拠地を構え(当時は北の庄と呼ばれた場所)、ここに一乗谷は歴史の表舞台から消えるのでした。

一乗谷は計画的に施設が整然と配置され、1995(平成7)年に約200mにわたって復元された町並みは見事としか言いようがありません。ちなみに、写真左手は建物が復元されていますが、写真右手は平面構成のみ現地に記してあるのみです。

川向こうは一乗谷の支配者、朝倉氏の館跡。こちらの唐門は、一乗谷朝倉氏遺跡をPRするときの定番。これは復元されたものではなく、松雲院の寺門として朝倉氏最後の当主である朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝り、今残るものは江戸時代中期の建築のようです。ちなみに松雲院は、一乗谷遺跡発掘に伴い移転しています。

また、4つの庭園が発掘されており、一乗谷朝倉氏庭園として国の特別名勝に指定されています。

ここの魅力については、またホームページでタップリと御紹介しましょう。長年訪問したかった場所であっただけに、感慨深いものがあります。10月は他にも、長年訪問したかった春日山城にも行けましたので、実に満足です。

さて、福井駅周辺に到着するも、ちょうど私と味野さんの帰宅手段である特急「しらさぎ」が出発したところだったので、次の列車まで約1時間程度暇に。そこで、私は訪問したことがありますが、福井城周辺を少々ご案内。

石垣と堀しか残っていなかった福井城も、近年は復元が多少進められ、往時の姿を感じられる場所も登場してきております。あとは、土塀なども復元してくれると嬉しいのですが・・・と思いつつ、福井を後にしました。 というわけで、連載終了まで思わぬ時間がかかりましたが、石川・富山・福井紀行はこれにて終了。ゼニガタさん、味野さん、本当に有難うございました。

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