2013年10月19日 城下町・萩を探訪する


あまりにも名所旧跡が多すぎて掲載が後回しになっていましたが、ボチボチと先月の山口県萩市・山口市の旅行について掲載しようと思います。 さて、ゼニガタ所員・味野源次さんと北陸を探訪した10月の3連休の次の週に、ゼニガタ所員・氷川副所長で山口県を旅行することに。徳山駅で合流し、以前私が住んでいた家を見ながら、氷川副所長の車で、一路、長州藩毛利家の本拠地であった萩市を目指します。 まずは、道の駅「萩往還」へ。立派な城門のような施設は、萩有料道路時代の料金所だそうです。

そして、ここには松陰記念館が併設されており、未だに山口県で絶大な人気を誇る、吉田松陰が松下村塾で講義をする風景が、実物大で再現されています。

さらに、萩城と城下町の復元模型も展示されており、今の街並みと見比べる意味でも必見です。

ちなみに、レストランでは、この日の特別メニューとして肉うどんが100円。 ・・・100円!! ということで、まだ昼には少し早い時間帯でしたが、美味しく頂きました。 やっぱり、うどんは西日本の味の方が好きです。

続いて、JR山陰本線の萩駅を撮影。1926(大正5)年に建築された洋風のモダンな駅舎で、国の登録有形文化財に指定されています。ただし、萩市中心部からは遠く、利用者は2011年には1日47人という少なさ。 萩市の玄関駅は、隣の東萩駅なのです。それでも、1日258人(2011年現在)。しかも、1999年は1日791人の利用があったというのですから、坂道を転がり落ちるように利用者数が減少しています。大丈夫か、山陰本線!?

続いて、萩城を目指していると気になる建築が見えてきましたので、急きょ寄ってみることに。

観音院観音堂というものらしく、萩市の景観重要建造物及び歴史的風致形成建造物に指定。嘉永年間(1848〜53年)に再建されたものだそうです。 建物時代も素晴らしいですが、1つ手前の写真のように、周辺の風景と組み合わせた雰囲気が素晴らしいですね。

0 そして萩城跡に到着。まずは、厚狭毛利家萩屋敷長屋を見学。毛利家の一門・厚狭毛利家の屋敷で、現在は1856(安政3)年に建てられた長屋のみ現存しています。

続いて、萩焼のお店が何軒か立ち並ぶ二の丸跡を経由し、本丸へ。残念ながら、堀と石垣しか残っておらず、かつての城郭建築はありません。

そんな中でも、萩藩永代家老・福原家の屋敷のうち書院が城内に移築されています。こちら、天明年間(1871〜89年)の建築です。しかし、もはや管理する余力がないのか、廃墟のような歪み具合・・・。

こちらは後年増築された部分だと思いますが、窓ガラスは割られ、壁も崩壊。 維持管理が大変なのはわかりますが、観光客としてはエッ・・・という状態です。何とかして欲しいですね。

萩城本丸を散策した所長一行は、引き続き武家屋敷が建ち並んでいた三の丸(通称「堀内地区」)を歩きます。国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている堀内地区は、今も数多くの武家屋敷の長屋門など、往時の遺構が多数残っています。

通常、三の丸と呼ばれるエリアは明治維新後、官公庁を中心としたエリアに再開発されたり、次第に何の変哲もない住宅街に変貌したりするのですが、萩城の場合は住宅そのものは建て替えが進んだものの、門や塀は多くが昔のままです。 まず探訪したのが、萩博物館・・・の外観のみ。2004(平成16)年に開館したものですが、外観は大野毛利家屋敷を再現したもの。後ほど紹介しますが、萩城の外堀に造られた中の総門という、玄関口の裏手に位置するため、立派な隅矢倉が建てられています。 ちなみに大野毛利家は、吉川広家の次男である毛利就頼を祖とする毛利一門です。

こちらが中の総門跡。左手奥に、先ほどの萩博物館が見えます。 中の総門は、城下町と萩城の武家屋敷群を隔てる萩城東側の3つの城門のうち、真ん中に位置するもので、他に北の総門・平安古の総門がありました。

近くに銅像があったのでいってみると、田中義一首相(1864〜1929年)の銅像でした。一般的に田中首相といえば、田中角栄を想像する人が多いと思いますが、ここでは田中義一。 長州藩の出身で、軍に入って陸軍大臣(原内閣)・陸軍大将を経た後、政界へ転身。1925年(大正14年)、高橋是清の後の政友会総裁に就任します。

そして1927年(昭和2年)4月20日から1929年(昭和4年)7月2日まで、田中内閣を組閣。 そして昭和金融恐慌の対応、中国への山東出兵を行う中、関東軍が奉天軍閥の張作霖を爆殺した満洲某重大事件が発生。関係者の処分を巡り、甘い対応になったことを昭和天皇に叱責され、田中内閣は総辞職し、田中義一は程なく没してしまいました。昭和天皇の叱責が相当堪えたそうです。

一方の昭和天皇もこの事態に驚き、以後は政治に口を挟まないことを決意たとのことで、まあ何が正しい姿かどうかは難しいところではありますが、太平洋戦争への突入に際して、最後の防波堤とならなかった、と言えるかもしれません。

田中義一首相について長くなりましたが、続いて北の総門へ。こちらは2004(平成16)年に復元され、さらに2011(平成23)年度までに総門脇の土塁や船着場、土塀付き土橋も整備され、往時の威容を取り戻しました。

柱間約6m、高さ7mの日本最大級の高麗門。

その裏手も武家屋敷群が数多く残り、特にこちらの旧益田家物見矢倉は必見。永代家老益田家の長屋の一部。 北の総門近くにあり、物見を兼ねていたため物見矢倉と呼ばれました。

この他については、既にホームページで掲載済ですが、国指定重要文化財に指定されている口羽家住宅表門と主屋は必見。口羽家は、永代家老に次ぐ家柄の萩藩寄組士で、表門は長州藩の江戸藩邸の門を拝領して萩に移築したものと伝わります。

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