2016年1月16日・17日 2度目の沖縄旅行は那覇から南へ


鉄道ネタが少ないと明日遠のいてしまうのか、意外と沖縄とは縁が少ないのですが、2009年に訪問して以来の沖縄に行ってくることにしました。まず羽田空港に到着すると、国際線ターミナルに全日空のスターウォーズ塗装を発見。いつかは間近で撮影してみたいものですが・・・。

久しぶりに富士山を上空から鑑賞。そして間もなく沖縄・・・というところで、那覇空港上空にて足止め。軍用機のスクランブル発進があったようで、1時間弱遅れての到着となりました。何はともあれ、有難うスカイマーク。

那覇空港からはモノレールで移動。ゆいレールも久しぶりに見ました。

さらに、航空自衛隊の那覇基地で保存展示されているF−4EJ改など軍用機の数々が車窓に見えてまいります。

こちらはF−104J。今にも飛び立ちそうですね。

最初に降り立ったのは、牧志駅。駅前広場には壺屋焼による巨大シーサーが展示されていました。

牧志駅から那覇市最大の歓楽街、国際通り周辺を歩きます。先日のブラタモリで放送され初めて知りましたが、この辺りは戦後、旧那覇市中心部が米軍に接収されたため、行き場を失った方々が、この付近で戦災の少なかった壺屋地区の窯業関係者などを頼って闇市を形成した場所。
また、国際通りという名前は1948(昭和23)年に開館した「アーニー・パイル国際劇場」に由来しているそうですね。

こちらの「むつみ橋」とは那覇市の市歌の一節「むつみ親しむわが那覇市」より、ここを流れるガーブ川の橋の名前として戦後に採用された名前。このガーブ川、現在は暗渠(あんきょ)化された上に、水上店舗が建築されているそうで、先日のブラタモリを見ながら驚きました。
暗渠化された川や水路の上が道路になることはよくありますが、まさか建物が建築されていたとは・・・。

久しぶりに那覇市第一牧志公設市場にも行ってみました。戦後にガーブ川沿いに形成された闇市を発祥とし、那覇市が公設市場として整備したもの。現在の建物は1972年の建築なので、かなり老朽した雰囲気ですが、それだけにレトロな感じが味わえます。

続いて壺屋やちむん通りへ移動し、壺屋焼物博物館に行こうとしますが臨時休館!ちなみに、壺屋地区は1682年に琉球王府が那覇の湧田や、首里の宝口など各地にあった窯場を集約して形成された焼き物のメッカです。また、「やちむん」とは「焼き物」という意味。

さて、壺屋焼物博物館脇の階段を登ると、ニシヌメー(北の宮)という拝所がありました。ニシとは、北という意味だとか。また、この拝所は大正7年に土地の守り神である土帝君(トーティークン)と、焼物の神様を祀るために建てられたそうです。


その隣には1986年から行われた沖縄県庁建設に伴い発見された湧田の平窯が移設保存されています。天井部分はすでに失われており、構造は明らかではありません。


その近くには、壺屋焼を語る上では欠かせない南窯(フェーヌカマ)が現存しています。長さは約20m,幅3mで、かまぼこ状型。さらに、覆屋は耐火性を考慮し、琉球石灰岩の石柱で屋根を支えています。南窯は沖縄県の指定有形文化財です。



壺屋やちむん通りの沿道は、数多くの焼き物販売販売店舗や体験工房などが軒を連ねています。

最大の見所は、国指定重要文化財の新垣家住宅。陶工の住宅で、主屋は19世紀後半までに建築されたと考えられています。このほか、作業場や登窯などが現存しており、見所満載・・・なのですが、平成29年の公開にむけて保存修理中。また見に行かねばなりませんな。


ゆいレールの首里駅で下車し、首里城に向かって歩き出します。この辺りは近年整備された首里城の石垣のようです。で、少々歩いていますと・・・。




第32軍司令部壕というのを発見しました。1945(昭和20)年3月、南西諸島を防衛する第32軍は地下壕にこもってアメリカ軍との決戦に備え、牛島満軍司令官をはじめとする1000人余の軍人、学徒などが雑居し、二段ベッドや三段ベッドが並べられていました。壕の長さは、約1数百mもあったそうな。


結局、5月27日に沖縄県南部へ向けて本格的に撤退し、主要部分は破壊されますが、その一部は今もこのように見ることが出来ます。当時は熱気と湿気で劣悪極まりない環境であったようです。


周囲はこのような状況。今では実にゆったりとした時間が流れていますが、70年前は・・・と思いを馳せずに入られません。さて、写真左手前は国指定重要文化財の天女橋。円鑑池の中島にある弁財天堂へ向けて架かる石造アーチ橋で、1502(尚真王26)年に造られました。よく沖縄戦で破壊されなかったものです。
写真左は首里城ですね。素晴らしい景観・・・。



続いて守礼門をくぐります。日本三大がっかりの1つとしてノミネートされることもありますが、それは沖縄戦で破壊された首里城の正殿などが復元される前、先行して守礼門だけが復元されていたことに起因するようです。

たしかに首里城に来て、これだけ見て帰ることになるとガッカリかもしれません・・・。



首里城の内部には後で入るとして、先に世界遺産の玉陵へ。第二尚氏王統の歴代国王が祀られている陵墓です。沖縄戦で大きな被害を受けましたが、現在は見事に復元されています。








さらに南へ歩き、金城町の石畳道を散策。約500年前から残る古道で、沖縄戦での破壊を免れています。


古民家風の休憩施設もあり、沖縄らしい景観。



さて、首里城へ。日本の城と異なり、石垣の曲線美が美しい沖縄の城。首里城の見どころもここだと言っても過言ではないでしょう。ハァハァ…。



前回訪問時には修復中だった首里城正殿。二層三階という独特な構造なのが特徴で、その前に広がる御庭(ウナー)で様々な儀式が行われました。タイルの色の違いは、整列するときに便利な目印となり、また浮道と呼ばれる中央の道は、琉球国王や中国からの使者など、限られた人しか通行できませんでした。
今や踏み放題状態ですが・・・。 そして、まさか2019(令和元)年10月31日に焼失するとは思いもよらず。



























これらが全部燃えたと思うと残念でなりません…。





さて、モノレールで県庁前駅へ。琉球王国の中心から、沖縄県の中心へ移動してまいりました。そもそも、首里と那覇は別の町で、1879(明治12)年に県庁が那覇に設置されたことから、沖縄の中心は港町だった那覇へ移ります。
行政区分上、首里は首里市として那覇市とは別に存在し続け、1954(昭和29)年に那覇市が首里市と小禄村を編入し、現在の形となりました。


その隣に仲良く並んでいるのが那覇市役所ですが、なんという奇抜なデザインでしょう。2012(平成24)年に竣工した、新しい庁舎。本土でこれをやったら市民団体から税金の無駄遣いだと猛烈な抗議が来そう?



駅に戻れば、ゆいレールのラッピング車をゲット。時折、純然たる企業の広告車両とは別に、様々なラッピング車両が運転されているそうですが、さすがに車両図鑑用に一々狙いに行くには距離が・・・。今回は良い収穫でした。

最後に、時間切れで入れませんでしたが福州園という中国式の庭園を外から見学。1992(平成4)年に那覇市制70周年、中国の福州市との友好都市締結10周年を記念して造園されたものです。



内部はなかなか本格的なようです。次回沖縄に行く際には見てみたいもの。

この日は那覇空港の南、糸満市内のホテルから出発。ホテル前にタクシーがいたので、早速乗り込み前日に大まかに立てていた計画通り実行しようとしますが、タクシーが1時間単位で貸し切りができるとのこと。4時間で1万2000円だったのですが、同行者もいたので半分にすれば6000円。レンタカーを借りて運転することを考えれば・・・ということで、人生初のタクシー貸切をさせていただくにしました。
結果、これが大正解。当初はバスを乗り継いで周るつもりだったので、時間の都合で断念していた場所や、タクシーの運転手さんオススメの名所旧跡も加え、見学時間のペース配分までしていただき、効率よく沖縄県南部を見て回ることが出来たのでした。 というわけで、最初に向かったのは具志川城。

具志川城は沖縄本島の(ほぼ)最南端の喜屋武岬の近くにある、標高17mの崖に築かれた城(グスク)。創建を始めとする城の実態については不明な点が多いですが、出土品からの推定では12世紀後半〜15世紀に使用されたと考えられています。

久米島の伝承によると、久米島町にあった具志川城の城主・真金声(まかねごえ、まかねくい)按司が、伊敷索(いしきなわ)按司の二男である真仁古樽(まにくたる)按司に攻められ、この地に逃れた際に故郷の「具志川」の名前を冠して築城したと伝わっています。

昔がどのような姿だったのか、復元イラスト等は一切なかったので想像するしか無いのですが、凄い景観ですね。

引き続きまして、これまでと同じく糸満市にある「ひめゆりの塔」へ。ここは、沖縄戦で亡くなった「ひめゆり学徒」及び教師の鎮魂のための慰霊碑。ちなみに「ひめゆり」とは、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の愛称のことです。
さて、ひめゆりの塔はガマ(自然洞窟)に設置された伊原第三外科壕の周辺に建立されており、写真右手「ひめゆりの塔」と掘られた小さな石碑が、終戦の翌年に造られたもの。写真奥の白く大きな碑は、1957(昭和32)年に納骨堂を覆って新たに造られたもので、2009(平成21)年に改修されています。


ちなみに伊原第三外科壕では、1945(昭和20)年6月19日のアメリカ軍の攻撃によって約100名中、80余名が亡くなったそうです。

続いて「ひめゆり平和祈念資料館」も見学。展示内容は案外淡々としたもので、グロテスクなものもなく、いわゆるお涙頂戴的な雰囲気ではありませんでした。それがむしろ、沖縄戦の悲惨さがジワジワと伝わってくる雰囲気。
写真撮影は禁止でしたが、どのような劣悪な環境で看護活動が行われていたのか、実物大のジオラマもありました。

続いて東へ移動しまして、糸満市摩文仁(まぶに)地区にある沖縄県営平和祈念公園へ。ここは毎年6月23日に、県主催の沖縄全戦没者追悼式が行われる場所です。

沖縄戦で犠牲になったのは沖縄の人だけではなく、各都道府県から派遣されて犠牲になった方々も大勢いることから、都道府県ごとに慰霊碑があります。ちなみに、都道府県ごとに形は全く異なっており、青森県は特産品のリンゴのモニュメントが・・・。

こちらは沖縄県平和祈念資料館。元々は1975(昭和50)年6月にオープンしたものですが、2000(平成12)年4月に改築。なんという巨大な施設でしょう・・・。





この日の天候は荒天が予想されており、次第に雨風が強くなる中で次に向かった場所は南城市にある「おきなわワールド」。鍾乳洞や沖縄の古民家、熱帯フルーツ園などを中心にしたテーマパークです。沖縄観光の定番のようですが、知らんかった・・・。
さて、上写真が玉泉洞という鍾乳洞。全長5000m中、800mが公開されている国内最大級の鍾乳洞です。

ところどころ、妙な名前がついているのが気になりますが・・・



こういうのは演出ですけど、美しいですな!



さて、いよいよ雨が強くなってきたので、地上部分は駆け足で見るだけ。


熱帯フルーツの数々は面白そうだったのですが、時間がなかったので少し見ただけでカット。




土産物屋として転用されているとはいえ貴重な古民家なのですが、雨足から逃げているうちに1棟撮り忘れてしまいました・・・。


タクシーの運転手さんに紹介され、やって来ました糸数城。先程と同じく南城市にあり、創建年代は不明。14世紀ごろに玉城按司(あんじ)の三男糸数按司によって築かれたとも伝わることから、玉城城の西の守りとしての役割があったのではないかと思います。

沖縄の城(ぐすく)は、最近になって観光資源として使えそうだ!ということで、沖縄戦で破壊された部分などを各自治体で整備を進めている真っ最中。説明文なども順次、整備されていくのでしょうが、市販の本でもネットでも案外詳しい情報はないので、良くわからんですな。


タクシー観光での最後は、斎場御嶽(せーふぁうたき)。世界遺産に指定されており、琉球王国最高の聖地。6つの神域(イビ)から成るそうです。


独特な景観は、如何にもパワースポット。こちらは寄満(ユインチ)と呼ばれるエリアで、寄満とは首里城では王のための食事を作る「台所」を意味。台所には国内外から様々な食材が集まってきましたから、そこから転じて豊穣の寄り集まるという解釈になっていると思われます。

特に特徴的な景観は、こちらの三庫理(サングーイ)。二本の鍾乳石と、三角形の空間の突き当たり部分が各々拝所となっており、建国神話が残り「神の島」と称される久高島を見ることが出来ます。・・・晴れていれば。

ここからはバスに乗って、与那原町立軽便与那原駅舎展示資料館へ。沖縄戦で破壊されるまで存在していた、沖縄の鉄道(軽便鉄道)の駅舎を復元したものです。
復元された駅舎は1931(昭和6)年に改築された2代目の駅舎であり、沖縄戦で甚大な被害を受けるも復旧され、途中で2階建てに増築されながらも消防署、町役場、農協として使用され続けてきました。農協が移転することに伴い、元の姿に復元することにしたもの。2014(平成26)年4月に竣工し、翌年1月に資料館としてオープンしたものです。大変喜ばしいことではあるのですが・・・。

元の部分で残っているのは駅舎背面の柱の一部だけで、後は全て新築。再利用は難しかったのだと思いますが、これまで風雨に耐えてきただけに勿体無い!

まあ、元々がこれだと保存は難しいか。

内部は資料館となっており、当時の様子を復元した模型もあります。


これにで1泊2日の沖縄ツアーを終了。自宅へと戻るのでした。

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