2019年10月6日 足利学校と東武佐野線、鉄道博物館へ


本日は馬藤所員と一緒に足利と佐野(葛生)、そして鉄道博物館へ。まずは小山駅から両毛線の211系に乗車して足利駅で下車。


駅前にはEF60 123号機が保存されており、電気機関車が駅前にいるというのは意外と珍しく貴重なのですが、状態の悪化が懸念されます。このままだと撤去・・・。

まずは足利学校へ。日本最古の学校として知られ、その創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説など諸説あり、室町時代に関東管領の上杉憲実(1410頃〜1466年)が再興に尽力し、鎌倉の円覚寺から僧快元を庠主(しょうしゅ=校長)として招いたり、現在国宝に指定されている蔵書を寄贈するなど、繁栄の基礎を築きました。
 その後の戦乱の中でも多くの生徒を集め、戦国時代には北条氏政の庇護のもと、3000人もの学生数を誇るほど。1549(天文18)年にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と紹介するほど、その高名が知れ渡っています。

江戸時代は徳川家康をはじめ、幕府の庇護を受けながら存続。1667(寛文7)年には足利藩主の土井利房が幕府や公卿大名の寄付を受け、翌年にかけて大修築を行います。一方、1754(宝暦4)年に落雷により御祈祷所、方丈、書院、庫裡などが焼失。次第に、上杉憲実が寄進した書物を見るための図書館的な性格を強めていきます。

 明治維新後に、足利藩は藩校として復興を図り、町民にも学校を開校し勉学の場としますが、廃藩置県により足利県(のち栃木県に統合)に引き継がれたのち、1872(明治5)年に廃校となり長い歴史に幕を下ろしました。
 その後、敷地の東半分は小学校に転用される一方で、旧藩士などの尽力で貴重な蔵書の散逸は免れ、1903(明治36)年に足利町(現・足利市)は足利学校遺蹟図書館を設立して蔵書の保全を行います。また、1921(大正10)年に足利学校の敷地と孔子廟や学校門など現存する建築物が国の史跡に指定されます。
 1982(昭和57)年には小学校が移転し、発掘調査等を経て史跡の復元作業を開始。1990(平成2)年に12月に江戸時代中期の姿に戻りました。で、1668(寛文8)年築の孔子廟は修築中!ガーン・・・。


こちらは復元された庫裏で、庠主や学生の日常生活の場として使われた場所です。


衆寮。僧房または学生寮で、6畳に一間の土間がついて一部屋。学生が寄宿したと考えられています。

続いてすぐ近くにある足利氏館(鑁阿寺)へ。殆どの建築が国宝や重文など、見ごたえが抜群すぎる場所で大満足。元々は足利氏の館で、四方に堀を巡らせた中世武士の館跡としても大変目の保養になるものでした。上写真は楼門(山門) 【栃木県指定文化財】。1564(永禄7)年に室町幕府第13代将軍の足利義輝によって再建されたもの。両側に仁王尊像を配しており、これは鎌倉時代、運慶の手によるものだとか。

本堂(大御堂) 【国宝】
1299(正安元)年に足利貞氏(足利尊氏の父)が建立したもので、1407(応永14)年から1432(永享4)年にかけて修築。江戸時代中期に正面向拝が改造されています。本尊は大日如来。

一切経堂 【国指定重要文化財】
足利義兼が創建した後、1407(応永14)年に関東管領の足利満兼が再建したもの(※現地看板及び鑁阿寺ウェブサイトの記載。文化庁の国指定文化財等データベースでは、江戸時代初期の建築と記載)。内部にある八角の輪蔵にて、一切経二千巻余(黄檗版)を収蔵しています。

鐘楼 【国指定重要文化財】
1196(建久7)年に足利義兼が創建(※現地看板などによる)。文化庁の国指定文化財等データベースでは、鎌倉時代後期築となっていることから、本堂と同時期に改築されたのでしょうか。いずれにせよ、随一の歴史を持ちます。

中御堂(不動堂)
1592(文禄元)年築。足利国朝の寄進と云われます。その他も古建築がゴロゴロしていますが、既に日本の旅コーナーで紹介しておりますので、割愛。

続いて両毛線で佐野駅へ行くと、駅前に「さのまる」ラッピングバスが停車中。

駅の裏手は佐野城跡。別名「姥が城」「春日岡城」とも云い、782(延暦元)年に藤原藤成が館を設けたのが始まり。944(天慶7)年には藤原秀郷が平将門降伏の誓願のため、ここに春日明神の社殿と寺を造営、朱雀天皇から春日岡山惣宗官寺(惣宗寺)の勅額を賜ったと云われています。いわゆる佐野厄除け大師の始まりです。

 さて、藤原秀郷を祖とする佐野氏は唐沢山城(佐野市富士町)を長らく本拠とし、関ヶ原の戦いで東軍に味方した佐野信吉は本領を安堵されたものの、1602(慶長7)年に徳川家康の命によって移転を命ぜられます。このため、惣宗寺を現在地へ移転させたうえで、跡地へ築城。南側から三の丸・二の丸・本丸・北出丸を直線的に配置した連郭式平山城跡でした。
 しかし、1614(慶長19)年に実兄である富田信高(伊予宇和島藩主)の改易に連座する形で改易。佐野城は破却され、その姿を消すことになりました。
 現在では宅地化等によって外堀などは無くなっていますが、三の丸・二の丸・本丸・北出丸と空堀は現存。市指定の名勝「城山公園」となっているほか、この頃に造られた碁盤の目状の整然とした城下町は、現在の町並みへ受け継がれています。

続きまして東武佐野線に乗車して、葛生駅へ向かいます。

葛生駅は2014(平成26)年に建て替えられ、きれいな姿。

葛生駅は非常に広い構内を持っているのが特徴。東武会沢線・東武大叶線・日鉄鉱業羽鶴専用鉄道の三つの貨物線が当駅まで石灰、セメント、ドロマイトを輸送していたそうです。


貨物線は今も架線が残っているので、まるで現役のよう。

次々と貨物列車が発着していたと想像すると胸が熱くなりますね。

その名残として、佐野市葛生行政センターの前に住友セメント栃木工場専用線DL No-13+砿車+人車が屋根付きの大変良好な形で保存されています。なお、あわせて佐野市葛生化石館も見学しましたが写真撮影禁止とのことだったので、割愛します。


さて、再び東武佐野線に乗車。

今度は佐野駅を超えて、終点の館林駅へ。

さらに久喜駅でJRに乗り換えます。

大宮駅で下車し、鉄道博物館へ。お目当ては、特急「白鳥」マークを付けたクハ481形でした。この姿は2001年に新大阪駅で撮影して以来!

これからも定期的に色々なトレインマークを掲出してほしいですね〜。

国鉄型の並び。ここに485系の非貫通型や583系も・・・と思うのですが・・・。

また、屋外の183系・189系は特急「すいごう」「あずさ」を表示。




400系。何度見ても格好いいですな。空気抵抗の関係で仕方がないのでしょうが、新幹線のデザインがどんどん不思議な形になるのは・・・。





その他、展示を一通り見てこの日の行程を終えました。

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