さきたま古墳公園〜埼玉県行田市〜
  Sakitama Ancient tomb park in Gyoda City , Saiatama Prefecture

 さきたま古墳公園は、「埼玉」名発祥の地である埼玉県行田市大字埼玉(さきたま)にある、さきたま古墳群や移築古民家などから成る、埼玉県営の都市公園。ここは、周囲に利根川と荒川が存在する肥沃な土地で、5世紀後半から7世紀初めまでに次々と作られたと思われる古墳が数多く存在しています。
 かつては大小含めて40基以上も存在していましたが、明治末から昭和初期にかけて農業用に土が削り取られて多くが姿を消しましたが、現在でも前方後円墳8基と円墳1基が残り、このうち稲荷山古墳から出土した鉄剣に、115文字の漢字が記されていたことは、日本の古代史を研究する上で、計り知れない成果となりました。
 また、前方後円墳はいずれも、殆ど同じ方向を向いている、(通常とは異なり)方形の多重周濠を持つなど、様々な謎があります。今回は、さきたま古墳公園の古墳のほか、他にもある行田市内の古墳をいくつか紹介します。

(解説&撮影:裏辺金好)

○場所

○さきたま古墳群

全体図
 合計9基の古墳が密集し、さらに敷地外に浅間塚古墳もあるため、合計10基の古墳を一堂に見ることが出来ます。



稲荷山古墳
 5世紀後半の築造と推定。教科書にも載っている国宝 「金錯銘鉄剣」が出土して一躍脚光を浴びた前方後円墳で、「私が獲加多支鹵大王(=ワカタケル大王、雄略天皇と推定)に由来をしるしておくものである」と自信たっぷり(?)に彫られた鉄剣の出土により、5世紀には大和朝廷の権力が北関東に及んでいたことが解ったのです。おまけに、製作年代も471年とほぼ推定でき、これは日本書紀や古事記が成立するよりも250年前の資料というのが、非常に貴重。
 しかし、そんな有名な古墳ですが昭和12年に前方部が壊されてしまい、現在見られるのは復元されたものです。


稲荷山古墳
 後円部の頂上にあった埋葬部分。舟形に彫った竪穴に河原石を貼り付け、その上に棺を置きました。さすがに棺や遺体は長年の風化により消えてなくなっていましたが、副葬品は、その配置がわかるほど残存。そこから出てきたのが、あの金錯銘鉄剣です。
 ちなみにもう1つ、粘土郭と呼ばれる埋葬部分もありましたが(粘土上に棺を置く)、こちらは盗掘にあっており、遺物は殆どありませんでした。
 礫郭部分には名称の由来となった稲荷社があったことから、盗掘を免れたのかもしれませんね。


金錯銘鉄剣 【国宝】
さきたま古墳公園の博物館で実物を見ることが出来ます。



丸墓山古墳
 6世紀前半の築造で、日本最大、直径105m、高さ19mの円墳です。
 ちなみに、豊臣秀吉による小田原の北条攻めに際して、1590年に石田三成が北条方の成田氏が守る忍城を包囲した際に陣を張ったといわれ、この古墳から駐車場までの道は、かつて忍城を水攻めにした際に造った堤防の跡(石田堤)の一部といわれています。忍城の周囲約28kmに渡って、水攻めのために僅か1週間で構築したもので、 利根川や荒川の水で忍城を水浸しにする予定でしたが、増水した水が堤防を決壊させ、石田方に多くの被害を与えてしまい、失敗に終わっています



将軍山古墳
 6世紀末の築造。全長約90mの前方後円墳で、稲荷山古墳から約100年後に造られました。明治時代まではしっかりと残っており、地元の人による発掘で様々な貴重な出土品が出ましたが、その後、半分が削り取られるという悲劇に。
 1997(平成9)年に復元され、復元部分には将軍山古墳展示館が併設。古墳内部に入ることが可能です。特に、ここから出土した、きらびやかな馬具の展示が必見です。
 また、築造時の姿を考慮し、数多くの埴輪が並べられています。




将軍山古墳展示館
 古墳の一部は博物館として活用されており、古墳時代の馬の装いや、石室内の再現展示を見ることが出来ます。


馬冑(ばちゅう)
将軍山古墳からの出土品で、全国でも2例しかない、馬につける鉄のカブト。



奥の山古墳
6世紀中ごろに築造された前方後円墳。



瓦塚古墳
6世紀前半に築造された前方後円墳で、全長73m。前方部の西側には造出(つくりだ)しが見られます。


二子山古墳
 6世紀前半に築造された前方後円墳で、全長138mという武蔵国最大の前方後円墳。西側くびれ部に造り出しがあります。


鉄砲山古墳
 6世紀後半に築造された前方後円墳で、全長109mで、2012年〜13年にかけての発掘調査で、全国的に希な三重の周堀を持つ古墳であることが判明しました。


中の山古墳
 6世紀末、埼玉古墳群の中で最後に作られたと考えられる前方後円墳。堀跡からは、埴輪の代わりにそこに大きな穴を開けた須恵器風の壺が出土しています。関東の古墳では唯一の例。全国でも九州の一部で似たものが発掘されているだけだとか。さて、これは何を意味するのやら。


愛宕山古墳
 6世紀中ごろの築造で、全長53m。さきたま古墳群の中で、もっとも小さな前方後円墳です。ただし、二重の堀はしっかりとめぐらされています。かつて、墳丘上に愛宕神社が祀られていたことから、この名前に。


旧遠藤家住宅
 江戸時代末期築。埼玉県幸手市から移築された稲作農家の民家で、屋根に煙出しの高窓が設置されています。

旧山崎家住宅
 さきたま古墳公園の中に移築された、行田市内にあった農家住宅。明治初期の建築で、二階部分で蚕を飼っていました。

○周辺の古墳

浅間塚古墳
 前玉神社として使われている古墳で、7世紀前半の築造と推定。直径8.7mの円墳と考えられていますが、元々は前方後円墳という説もあります。


白山古墳

 7世紀前半の築造と推定される、直径約50mの円墳。白山姫神社がまつられており、東側に横穴式石室の奥室とみられる緑泥片岩が露出しています。




八幡山古墳
 7世紀前半に築造された、直径約80mの円墳と推定。1934(昭和9)年に、近隣にある小針沼を埋め立てる際に、古墳の土を削り取ったところ、全長16.7mに及ぶ巨大な石室が露出しました。
 奈良県明日香村の石舞台古墳(いしぶたいこふん)に匹敵する巨大な石室で、「関東の石舞台」とも呼ばれています。休日には石室に入ることも可能で、これはもっとPRしたほうがよいのでは・・・。また、この古墳を中心に、若小玉古墳群が広がっていますが、下で紹介する地蔵塚古墳を除き、富士見工業団地の造成で失われています。


地蔵塚古墳
 7世紀中ごろの築造と考えられる、一辺約28mの方墳。若小玉古墳群の1つで、地蔵堂が墳頂に安置されていることから、この名前が付いています。また、石室の左壁、右壁、奥壁に烏帽子をかぶった人物や弓を引いている人物などの線刻画が描かれています。