全体図
合計9基の古墳が密集し、さらに敷地外に浅間塚古墳もあるため、合計10基の古墳を一堂に見ることが出来ます。
稲荷山古墳
5世紀後半の築造と推定。教科書にも載っている国宝 「金錯銘鉄剣」が出土して一躍脚光を浴びた前方後円墳で、「私が獲加多支鹵大王(=ワカタケル大王、雄略天皇と推定)に由来をしるしておくものである」と自信たっぷり(?)に彫られた鉄剣の出土により、5世紀には大和朝廷の権力が北関東に及んでいたことが解ったのです。おまけに、製作年代も471年とほぼ推定でき、これは日本書紀や古事記が成立するよりも250年前の資料というのが、非常に貴重。
しかし、そんな有名な古墳ですが昭和12年に前方部が壊されてしまい、現在見られるのは復元されたものです。
稲荷山古墳
後円部の頂上にあった埋葬部分。舟形に彫った竪穴に河原石を貼り付け、その上に棺を置きました。さすがに棺や遺体は長年の風化により消えてなくなっていましたが、副葬品は、その配置がわかるほど残存。そこから出てきたのが、あの金錯銘鉄剣です。
ちなみにもう1つ、粘土郭と呼ばれる埋葬部分もありましたが(粘土上に棺を置く)、こちらは盗掘にあっており、遺物は殆どありませんでした。
礫郭部分には名称の由来となった稲荷社があったことから、盗掘を免れたのかもしれませんね。
金錯銘鉄剣 【国宝】
さきたま古墳公園の博物館で実物を見ることが出来ます。
丸墓山古墳
6世紀前半の築造で、日本最大、直径105m、高さ19mの円墳です。
ちなみに、豊臣秀吉による小田原の北条攻めに際して、1590年に石田三成が北条方の成田氏が守る忍城を包囲した際に陣を張ったといわれ、この古墳から駐車場までの道は、かつて忍城を水攻めにした際に造った堤防の跡(石田堤)の一部といわれています。忍城の周囲約28kmに渡って、水攻めのために僅か1週間で構築したもので、
利根川や荒川の水で忍城を水浸しにする予定でしたが、増水した水が堤防を決壊させ、石田方に多くの被害を与えてしまい、失敗に終わっています
将軍山古墳
6世紀末の築造。全長約90mの前方後円墳で、稲荷山古墳から約100年後に造られました。明治時代まではしっかりと残っており、地元の人による発掘で様々な貴重な出土品が出ましたが、その後、半分が削り取られるという悲劇に。
1997(平成9)年に復元され、復元部分には将軍山古墳展示館が併設。古墳内部に入ることが可能です。特に、ここから出土した、きらびやかな馬具の展示が必見です。
また、築造時の姿を考慮し、数多くの埴輪が並べられています。
将軍山古墳展示館
古墳の一部は博物館として活用されており、古墳時代の馬の装いや、石室内の再現展示を見ることが出来ます。
馬冑(ばちゅう)
将軍山古墳からの出土品で、全国でも2例しかない、馬につける鉄のカブト。
奥の山古墳
6世紀中ごろに築造された前方後円墳。
瓦塚古墳
6世紀前半に築造された前方後円墳で、全長73m。前方部の西側には造出(つくりだ)しが見られます。
二子山古墳