山口県山口市 
  Yamaguchi City

▼MAP

▼アクセス
JR山口線 山口駅

▼関連サイト

山口市観光案内処
山口県観光案内情報「おいでませ山口へ」
 山口市は、山口県中部に位置する同県の県庁所在地。椹野川(ふしのがわ)流域の山口盆地を占める一方で、南部は周防灘にのぞんでいます。室町時代に大内氏の拠点として栄え小京都と呼ばれるほどでしたが、江戸時代は毛利氏が萩に拠点を置いたため衰退。しかし幕末に毛利氏が藩庁を移し、廃藩置県後は山口県の県庁所在地として再び発展しています。
(写真上:瑠璃光寺五重塔/撮影八十八舞太郎)

1.大内氏ゆかりの山口市

瑠璃光寺(るりこうじ)五重塔(1442年築)。山口を代表する建築で、日本でもかなり古い建築になる。

今八幡宮(重要文化財)。上山口駅からほぼ真っ直ぐ。楼門・本殿・拝殿は1503(文亀3)年築。

今八幡宮から市内を眺める。

消失前のサビエル記念聖堂。
重厚な造りが人気だった。

現在のサビエル記念聖堂(1998年再建)。内部のステンドグラスはなかなかの見応えですが、ただの教会なので、信者でもなければ立ち寄ってみる必要性が薄れてしまったのが残念。
 今回は山口県山口市です。
 山口市は室町時代後半に中国地方西部を支配した大内氏の根拠地として盛衰を共にし、さらに幕末には毛利家が藩庁をここに移転したため、この2つの時代の面影が色濃く残る街です。

 まずは大内氏時代の話と、史跡について解説をしていきましょう。
 大内氏とは何者だがや、ということですが、この一族は古代朝鮮国家の1つ、百済(くだら)の聖明王の第3王子・琳聖太子(りんせい)が周防の国にやってきたことに始まります。

 彼は、聖徳太子に謁見して多々良という姓を賜り、周防国大内県の裁量を許され、勢力を拡大し、12世紀に大内氏を名乗ります。そして室町時代には日本有数の守護大名として成長し、大内義弘の時には足利義満に討伐を受けてしまうほどですが、何とか持ち直し、再び勃興。
 
 室町時代末期には雪舟をはじめとする文化人があつまり、特に応仁の乱以降は戦乱を逃れてくる貴族・文化人を多数保護することで文化の中心となりました。 さらに町並みは京都風にされます。残念ながら当時の街並みの殆どは失われましたが、今でも区画にその名残をとどめていますし、市内には当時建てられた寺も幾つか残っています。

 特に、香山公園の北側に位置する、国宝の瑠璃光寺(るりこうじ)五重塔は、先ほど紹介した大内義弘の菩提寺として、1442(嘉吉2)年に完成したもの。奈良の法隆寺五重塔、京都の醍醐寺五重塔にならぶ、日本三名塔のひとつとなっています。なお、香山公園には、その後ここを治めた毛利家の墓所もあります。

 それから、山口市八幡馬場にある今八幡宮は、拝殿・本殿と楼門が1503(文亀3)年の建築となっていて、大変古い建物。国指定重要文化財です。

 また、大内氏の頃に日本に初めてキリスト教(カトリック)を伝えたフランシスコ=ザビエル(*注:山口県ではビエルと表記)が立ち寄ったことから、それに記念して建設されたサビエル記念聖堂は、昔から観光名所となっています。

 と、いうのもザビエルの生まれた、ザビエル城を模して作られた教会で、なかなか見応えのあるものだったのです。しかし1991(平成3)年、惜しくも不審火により消失し、現在はステンドグラスの美しい、白い教会となっています。

 また、山口の伝統工芸品である大内塗は、天然木、本うるし、純金箔を用いた大変美しい工芸品で、大内氏が明との貿易にあたり、輸出品として奨励したのが始まりと言われてます。少々値が張りますが美しく、おみやげには最適です。特に、この技術を使って作られている大内人形は、世界でも珍しい、漆を用いた人形です。

 そんな大内氏時代でしたが、大内義隆が京都文化に興味を持ちすぎたこともあって、重臣の陶晴賢が反乱を起こし、これを打倒。彼は義隆の従兄弟であった豊後の戦国大名・大友宗麟の弟、大友晴英を次の当主として迎え、大内義長と名乗らせます。

 しかしよく知られている通り、陶晴賢は、安芸の戦国大名・毛利元就におびき出され厳島の戦いで戦死。大内家はそのまま毛利元就に攻め滅ぼされてしまい、山口の繁栄はここに終焉を迎えます。


八坂神社本殿 【重要文化財】
1520(永正17)年築。元々は1369(応安2)年大内弘世が京都より勧請したもの。本殿は大内義興が新築させ、二間社流造り、屋根は桧皮葺きで、今も当時のまま残っています。ただし、現在地は江戸時代末期、毛利氏が本殿を移転したものです。(撮影:八十八舞太郎)

八坂神社
現在地は、もとは大内氏の迎賓館「築山館」があった場所。住所は山口市上竪小路 103。ちなみに、直ぐ近くにある河村写真館(旧小野写真館)は1875年築の近代建築。
(撮影:八十八舞太郎)

龍福寺(旧大内氏館)
1206(建永元)年、大内満盛が創建した臨済宗の寺が発祥(当時は宝珠山瑞雲寺)。1454(享徳3)年、大内教弘雪心和尚を迎え曹洞宗の瑞雲山龍福寺とします。しかし、陶晴賢の乱の時に燃え、1557(弘治3)年に、毛利元就の長男・毛利隆元が大内義隆の菩提寺として、大内氏館跡に移転&再建します。
(撮影:八十八舞太郎)

龍福寺本堂 【重要文化財】
本堂は1521(大永元)年築。龍福寺が1881(明治14)年に火災にあい禅堂と山門を残して全焼したため、吉敷郡大内村(当時)にあった興隆寺の釈迦堂を移建したものです。
(撮影:八十八舞太郎)

山口市の名所の1つ、一の坂川。桜やツツジの名所で、さらに絶滅しかけたゲンジボタルを再び繁殖させたことでも有名。(撮影:八十八舞太郎)
 この他、大内氏ゆかりの建物としては、山口市宮野下にある清水寺 山王社が1566(永禄9)年築、清水寺 観音堂 (1573〜92年 天正期)築、山口市水の上町にある洞春寺観音堂・山門(1400〜30年頃)築(重要文化財)があります。

 また、常栄寺に雪舟が設計した庭園と、その近くには彼が過ごした雲谷庵跡があります。雪舟はここで亡くなったといわれます。この庵は現在、復元建築として存在している他、同敷地内にある大内政弘が雪舟に依頼し築造させた庭園(常栄寺雪舟庭)は、国の史跡名勝に指定されています。

2.毛利氏ゆかりの山口市

古熊神社本殿。1373(応安6)年、大内弘世が京都の北野天神を勧請し、山口北野小路に祀ったのが発祥。1618(元和4)年に毛利秀就がこの地に遷宮しました。
(撮影:八十八舞太郎)

サビエル記念聖堂もある亀山公園には、幕末の長州藩主毛利敬親の銅像が。彼の墓は香山公園にあります。

クリエイティブ・スペース赤れんが。10年近い保存運動の末に、このような形で活用
(撮影:八十八舞太郎)
 大内氏滅亡後、山口は毛利家の支配下に入ります。
 関ヶ原の戦いで敗北した毛利氏は防長2ヶ国に削減され、広島の地を去ることになりますが、それでも徳川氏への配慮と、海に面していたこともあり萩を本拠とし、山口には代官がおかれることになります。

 ちなみに、この江戸時代初期の建物としては、古熊神社が残っています(国指定重要文化財)。本殿が1618(元和4)年、拝殿は少し古く1599(慶長4)年築。もっとも、元々は室町時代(16世紀中頃 天文年間)に建築された物を移築流用したらしいです。

 それから時は流れ、幕末に毛利家の政治の中枢部分が移転してきます。

 その幕末時の史跡は、建築物にはほとんど見るべきものがありませんが、、木戸孝允生誕地、井上馨が襲われた地、その他幕末の志士の墓などがあります。

 さらに瑠璃光寺そばの香山公園内には、枕流亭(ちんりゅうてい)が移築現存。これは、長州藩の桂小五郎らと、薩摩藩の重臣小松帯刀西郷吉之助(隆盛)などが2階で会見し、幕府を倒す連合討幕軍の結成を討議していた小さな建物です。何度か移築の末、現在地に落ち着いてます。

 また別ページで紹介していますが、山口城(山口藩庁)藩庁門が当時の名残をとどめ、現在は、山口県庁が建っています。ついでながら、そこには1916(大正5)年に建てたれた旧山口県庁本庁舎・旧県会議事堂(国重要文化財)も保存されており、県政資料館として活用されています。

 近代建築はその他以下の通り。
 左で紹介しているクリエイティブ・スペース赤れんが(旧県立図書館書庫)が1918(大正7)年築。場所は山口市中河原町5−12。

 山口ふるさと伝承総合センターまなび館〜旧野村家住宅〜は(1886)年築の大きな和風の住宅です。龍福寺近くの山口市大字下堅小路12。

 山口県立山口高校記念館(旧・山口高校講堂)〜1922(大正11)年築。場所は山口市糸米1−9−1。

 山口県警察体育館〜1930(昭和5)年築。和風の堂々たる建築で、場所は山口市後河原片岡237。

 山口県建設技術センター〜1928(昭和3)年築。場所は山口市春日町8−2。等となっております。

 また、史跡とは別に山口市は湯田温泉と言う温泉街を持っています。1200年頃より続く由緒ある温泉で、幕末の志士たちも使ったことでしょう。さらに、歌人の中原中也などのゆかりの地でもあり、関係の句碑などが多くあります。


3.SLやまぐち号
 山口と言えば忘れてはいけないのが、JR山口線の新山口〜津和野を結ぶSLやまぐち号
 全国から消えたSLを、当時の国鉄総裁の英断によって1979(昭和54)年8月1日より運行を開始し、多くの乗客を乗せています。その一方で、山口線は県庁所在地を走るにもかかわらず、未だに非電化ローカル線なんですけどね・・・(笑)。

SLやまぐち号 【C57 1】
基本的には、このC57 1が牽引。終点の津和野駅(島根県津和野町)では、ターンテーブルに載って進行方向へ反転する姿も見られます。貴婦人の愛称が付いております。

SLやまぐち号 【C56 160】
C57に故障が起こったときや検査期間中、イベントなどに登場するのがC56 160。C57 1と重連で運転されることも。
(写真:山口線 新山口駅 撮影:八十八舞太郎)