鎌倉の史跡・近代建築など〜神奈川県鎌倉市〜
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amakura City , Kanagawa Prefecture

 鎌倉市は、源頼朝が開いた鎌倉幕府で有名な都市。相模湾に面し、景色が素晴らしい。昭和初期には川端康成らが別荘を構えた他、高度経済成長期には高級住宅地街へと変貌していきます。そのため、1966年に京都や奈良と共に「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」が制定され、古都の景観が守られるようになりました。

 今回は、そんな鎌倉の寺院と鎌倉幕府の史跡の中から、他のページでご紹介できなかったものをまとめて掲載します。
(撮影・解説:裏辺金好)


英勝寺
 鶴岡八幡宮から西へ、JR横須賀線を渡った場所にある浄土宗の寺。鎌倉唯一の尼寺で、江戸を開いた太田道灌の子孫、太田康資の娘(徳川家康の側室・お勝局)が開基しました。


仏殿
 1636(寛永13)年築。
 創建時の面影を残す立派な仏殿です。

唐門・祠堂
 1643(寛永20)年築。
 祠堂は写真右上の小屋の中にしまわれています。非常に色彩豊かな建物で、窓ガラス越しからでも必見。


寿福寺
 臨済宗建長寺派の寺院。かつて源頼朝の父、義朝の屋敷があった場所で、頼朝は当初、この場所に屋敷を構えようとしましたが、岡崎義実が義朝を弔うお堂を建てていたため、諦めたとか。幻の鎌倉幕府建設予定地ということですね。
 頼朝が死去すると、妻の北条政子の発願で伽藍を建立。鎌倉五山第3位の寺として鎌倉末期から南北朝時代にかけて大いに発展。しかし、1395(応永2)年の大火以降は、次第に衰退していきます。
 入り口の朱塗りの総門、仏殿前の山門は江戸時代初期の建築。また、墓地の山際にある「やぐら」群には北条政子、源実朝の墓と伝えられるものもあります。また、高浜虚子や陸奥宗光の墓もあります。


仏殿
 1714(正徳4)年築。通常は非公開ですが、内部には釈迦如来像(重要文化財)などがあります。

伝北条政子墓


伝源実朝墓

伝北条政子・源実朝墓付近

 鎌倉の墓として非常に特徴的な「やぐら」群。


大蔵幕府跡および源頼朝墓など
 鶴岡八幡宮を東に歩き、現在は清泉小学校が建っている場所が、源頼朝が鎌倉に入って建てた館跡で、初期の鎌倉幕府の中心地でした。これを、大蔵幕府といいます。1225(嘉永元)年に執権の北条泰時が若宮に幕府を移すまで使われました。
 清泉小学校の北には、白旗神社がありますが、ここには源頼朝の墓があります。


石碑
 鶴岡八幡宮境内から東へ行き、横浜国立大付属小中学校に沿って進むと桜並木があります。この付近一帯が大蔵幕府の跡です。1917(大正6)年に建立された石碑が建っているので、すぐに解ります。

源頼朝墓
 ここは、1247年、三浦泰村が第5代執権・北条時頼に対し挙兵し敗北(宝治合戦)。そして、一族で自害をした場所でもあります。頼朝公の前で、ということでしょうか。  
 ちょっと歴史の話。ここで、毛利家の祖先・毛利季光は三浦方について自害しています。本当は娘婿の北条時頼に荷担しようとしたのですが、妻が三浦家の人だった。そのため、さんざんに説得されて三浦方につき、敗北して自害する羽目になった可哀想な人です。


大蔵幕府跡
 源頼朝の墓がある高台のふもとからの風景。かつてはこの付近が鎌倉幕府の中心地でした。

大江広元・毛利季光・島津忠久の墓
 源頼朝の墓から東に少し歩くと存在。大江広元は、源頼朝の招きで政所の別当などとして鎌倉幕府草創期に大活躍した人物。その子、毛利季光は大名、毛利氏の祖となった人物です。
 一方、島津忠久は薩摩の大名、島津氏の祖。江戸時代になって、源頼朝墓などと共に島津重豪などが整備しました。これらが、実際に本人の墓かどうかは不明。


鎌倉宮
 1869(明治2)年に明治天皇の勅命により創建された神社。かつての東光寺跡に建立されたもので、この地で殺害された、後醍醐天皇の皇子である護良親王を祭神としています(北条時行による中先代の乱が起きた際、足利直義の命で、淵辺義博が斬首)。
 
 境内には彼が幽閉された土牢や、吉野城で親王の身代わりとなって戦死した、村上義光の木像、通称「身代わりさま」があります。

覚園寺

 真言宗泉桶寺派の寺院。起源は1218(建保6)年に執権、北条義時が建立した大蔵薬師堂。これをベースとして、1296(応永4)年に北条貞時が心慧上人を開山として覚園寺を創建しました。

 境内には薬師堂(1689年築/県指定文化財)、旧内海家住宅(1706年/県指定文化財)、愛染堂(江戸後期築)などがあり、必見です。


東勝寺跡および北条執権館跡


東勝寺跡
 1333(元弘3)年、新田義貞の攻撃で鎌倉幕府は滅亡するのですが、得宗・北条高時らが一族郎党と共に立てこもり、全員で自害した悲劇的な地が、この東勝寺。この時鎌倉では6000人が自害したともいわれます。なお現在は、何も残っておらず、まさに強者どもが夢の跡状態。(右へ) 

宝戒寺
 というのも、北条高時らの死後、足利尊氏は麓に寺を移したからです。それが、今も残る宝戒寺です。この宝戒寺は、14代執権、北条高時の館(北条執権館)があった場所で、鶴岡八幡宮から東に歩いていけばあります。
 なお、本尊の
地蔵菩薩像(重要文化財)は1365(貞治4)年に造られたもの。


本覚寺
 1436(永享8)年、一乗房日出が開いた日蓮宗の寺。若宮大路の東に位置し、2世日朝が身延山から日蓮の遺を分骨し、「東身延」と称しています。


楼門
 江戸末期築。
 創建時の面影を残す立派な仏殿です。

鐘楼


長谷寺・鎌倉文学館周辺


長谷寺への道

旅館対僊閣
 1927(昭和2)年築。明治時代以来の旅館で、鎌倉における戦前からの旅館建築として重要な建物。意匠も非常に特徴的です。

長谷寺
 十一面観音菩薩像(長谷観音)を本尊とする長谷寺。古い建築物はありませんが、736(天平8)年以来の長い歴史を持ち、また庭園や長谷寺の高台からの眺望はなかなか。

安齋商店
 1924(大正13))年築。
 長谷地区の商店建築として重要な建物。

白日堂
 1940(昭和15)年築。鎌倉彫の工房券住宅として建てられたもので、城郭風と寺院風をミックスした雰囲気なのが特徴。

鎌倉文学館 (旧 前田利為侯爵別荘)
 1936(昭和11年)築。前田利為侯爵の鎌倉別邸を全面改築したもので、その後、デンマーク公使、佐藤栄作首相が借用し、現在は鎌倉市が所有する和洋折衷の住宅。

鎌倉文学館
 遠目には洋館のように見えますが、よく見ると和風の衣装も凝らされているのが特徴。

鎌倉文学館 玄関
 いかにも昔の・・・といった感じの雰囲気。なお、現在は鎌倉ゆかりの文学者達の展示が行われています。

長谷こども館 (旧諸戸邸洋館)
 1908(明治41)年築。鎌倉文学館近くにある明治時代の洋館で、現在は地域の子供達の集いの場。1階にドリス式の、2階にイオニア式の列柱を持ちます。

江ノ島電鉄 100形
 鎌倉海浜公園で保存されている江ノ島電鉄の名車、100形(107号)。昭和55年より保存されています。車内に立ち入ることは可能ですが、周囲は金網で囲まれ、撮影が難しいのが非常に残念・・・・。