関が原の戦いの敗北によって防長2カ国へと領地を削減された毛利輝元は、毛利水軍の拠点を下松(くだまつ)に置きますが、1611(慶長16)年に萩と三田尻(現、防府市)を結ぶ萩往還の終点にほど近いこの場所へ、その拠点を移しました。これが三田尻御舟倉で、江戸時代中ごろまでは参勤交代に向かう歴代藩主一行は、ここから船に乗って出発していました。そのため、ここには藩主が乗船する御座船や、軍船が常備されており、さらに水軍を率いる武将や船大工の住居が整備されました。
既に江戸時代中ごろより周辺は次第に干拓され、海に出にくくなっていましたが、明治維新を迎えると廃止。ここも埋め立てられ、現在は一部の通堀や水路などが当時の面影を伝えています。
(撮影・解説:裏辺金好)