群馬県高崎市(2)〜高崎百衣大観音・倉賀野宿〜
   Takasaki Byakui Daikan-non and Kuragano Jyuku in Takasaki City, Gunma Prefecture

▼MAP

▼アクセス
JR上越新幹線・高崎線高崎駅よりバス
JR高崎線倉賀野駅より徒歩 など

▼関連サイト
高崎市役所「高崎の観光トップページ」
 今回は高崎市内の史跡、主としてJR高崎駅から西へ高崎観音こと百衣大観音周辺、上信電鉄山名駅近くの山名八幡宮、JR倉賀野駅近くの中山道の倉賀野宿周辺をあれこれと散策していきます。

百衣大観音
 観音山(正しくは岩野谷丘陵)に建ち、高崎市街を眼下に見下ろす高崎観音こと慈眼院(真言宗)の高崎百衣大観音。
 1936(昭和11)年に、井上工業社長などを務めた実業家の井上保三郎氏(1898〜1993年)が建立した比較的新しいもの。・・・だったはずが、いつの間にやら建立から70年以上も経過し、現在では国の登録有形文化財に指定された高崎市のシンボル的存在です。2年余りの歳月を費やして完成しました。
 高さは41.8m、重さ5985t のコンクリート造、胎内は9階で、原型は伊勢崎の彫刻家森村酉三氏によるもの。その原型を池袋にあったアトリエから、日本橋の井上工業東京支店まで自転車で運んだのが、入社間もない田中角栄元首相だったとか。
 詳細は高崎市役所HP http://www.city.takasaki.gunma.jp/gaiyou/taka100/taka46.htm

建立のきっかけは、1934(昭和9)年の陸軍特別大演習のとき、井上保三郎氏が昭和天皇に
単独で拝謁できたことを機に、高崎の観光振興と、陸軍十五連隊戦死者の慰霊を祈願したもの。


昭和61年に建立された千体観音堂

清水寺
 高崎百衣大観音から中腹に下ると、清水寺(せいすいじ)という寺院があります。観音山の名前は、高崎観音ではなく、この清水寺が本尊に千手観音を祀っていたことから来たもので、 坂上田村麻呂が蝦夷(えみし)との戦いで亡くなった人たちを弔うために、京都の清水寺を勧請して建立したと伝えられています。
 518段もの階段(結構疲れます・・・)、舞台を兼ねた山門などが特徴です。



石段を登っていくとゴール付近に、巨大な山門が出迎えます。

本堂の様子

山名八幡宮
 上信電鉄山名駅の直ぐそばにある山名八幡宮は、平安時代末期の安元年間(1175〜77年)に、源氏で新田一族の山名義範(新田義重の子)が豊前の宇佐八幡宮を勧請して建立したもの。山名氏は新田一族ながら足利氏と歩調と合わせて活躍(そもそも足利一族との説も)。
 室町幕府第3代将軍である足利義満の頃、山名氏清が全国66ヶ国中11ヶ国の守護職と一大勢力を作り上げます。ただし、義満に危険視され討伐されていまい、山陰に押し込められました。
 しかし山名氏は、山名持豊(宗全)が赤松氏討伐に功績があり、8代将軍足利義政の時には中国地方東部の守護職の大部分を得て、再び勃興。山名宗全は応仁の乱の時には西軍の総大将として戦います。
 もっとも彼の死後は、下克上の世の中で、離反が相次いで次々と領土を失い、江戸時代は僅かな石高で徳川家の旗本として但馬村岡で存続。このように山陰のイメージが強い山名氏ですが、その起源がこの山名八幡宮一帯でした。現在でも、ここの地名は「山名」であり、八幡宮の背後には山名城址があります。

ちなみに後醍醐天皇の孫、君長(ただなが)親王が山名城に逗留した際、
山名城主の世良田政義の娘を懐妊させ、ここで安産の祈願をしたところ無事に良王(よしゆき)君が生まれ、
健やかに成長されたことから、安産と子育ての神として崇拝されています。

山名八幡宮拝殿 【市重要文化財】
江戸時代後期築。清水寺に引き続き、また石段を登るのか・・・と思いましたが、僅かなものでした。

山名八幡宮本殿 【市重要文化財】
江戸時代後期築。本殿は改修を受けて極彩色の豪華な姿になっています。

倉賀野城・八幡神社
 JR倉賀野駅から真っ直ぐ南へ、中山道を越えて住宅街に入り烏川沿いにあったのが倉賀野城。おそらく烏川を天然の外堀にしたものでしょう。平安時代末期の治承年間(1177〜80年)に、武州児玉党の余流である秩父三郎高俊が領有して、居館を構えたのが始まりです。以後、倉賀野氏と名乗り子孫は戦国時代に至るまで勢力を保ち、関東管領の山内上杉氏に仕え、さらに倉賀野尚行は、1561(永禄4)年の上杉景虎(謙信)の小田原攻めにも協力します。

 この倉賀野城は中々重要な戦略拠点だったようで、上杉謙信や武田信玄は重要視。武田信玄によって倉賀野城が落とされると、倉賀野尚行は上杉謙信を頼って越後へ落ち延び、そして武田信玄と激闘を繰り広げた、長野氏の居城である箕輪城は孤立してついに落城。上州における勢力図を塗り替えました。

 その後、武田氏に従っていた倉賀野(金井)秀景が、滝川一益、北条氏直と主家を変えて、倉賀野城を奪還していますが、豊臣秀吉の小田原攻めで小田原城にいた際、前田利家、上杉景勝の攻撃で倉賀野城は落城し、廃城となりました。また、倉賀野秀景は小田原で討ち死にしています。そして現在では遺構は殆どなく、場所もわかりにくい雰囲気です。

 さて、すぐ近くに八幡神社があります。1646(正保3)年に田口辰政が夢のお告げによって倉賀野城三の郭跡に行くと、一夜にして井戸が出現し、八幡大神が降臨。高崎城主の安藤重長に事の次第を訴えたところ、倉賀野城ニの郭跡に社殿を建立し神社として、田口辰政を神主とすることにしたという、どこまでが本当でどこまでがウソか解らない伝承を持ちます。また一説には、倉賀野三河守という人物が鶴岡八幡宮を勧請したものとも。

 現在の社殿は1859(安政6)年に建築されたものです。

倉賀野城址の碑。直ぐ後ろは住宅街となっており、区画も整理されて城跡の痕跡は不明。

脇を烏川が流れています。これを天然の外堀にしていたのでしょう。

こちらは倉賀野城址に建てられた八幡神社。

倉賀野宿
 さて、江戸時代の倉賀野は中山道の宿場町として栄えました。江戸から数えて12番目の宿場であり、日光へ向かう日光例幣使街道が分岐し、前述の烏川による年貢米を江戸に運ぶため倉賀野河岸もある非常に重要な拠点で、多くの人が利用し賑わいました。
 現在は脇本陣(大名や上級武士の宿泊が重なった時に使用された)が残り、往時の面影をとどめているほか、中山道と例弊使街道の分岐点に、石造りの道しるべと常夜灯が残っています。

脇本陣須賀家の屋敷の一画に復元された高札場。

昔の雰囲気を残す脇本陣須賀家。いつの建築でしょうか。

倉賀野宿、現在の風景。