保渡田古墳群・かみつけの里博物館〜群馬県高崎市〜


 高崎市と合併する前は群馬県群馬町だった地域にある保渡田古墳群。約1500年前の豪族が眠る古墳で、5世紀の終わりから6世紀の初めにかけて、短期間のうちに二子山古墳、八幡塚古墳(上写真)、薬師塚古墳の3つが続けて造られました。この地には、上毛野の盟主的な存在がいたと思われ、付近では豪族の居館(三ツ寺I遺跡)も発見されています。
 中でも八幡塚古墳は、大きく削り取られていたことを逆手に取り、平成8年度から平成11年度までの4ヶ年をかけて築造時の姿に本格的に保存復元が行われ、全国の中でも数少ない葺石に覆われた姿を見ることが出来ます。また、これらの古墳や遺跡を紹介する「かみつけの里博物館」も整備されています。
 詳細は後述するとして、群馬県は奈良や岡山と並び古墳の宝庫。お隣の前橋市の総社古墳群をはじめ、大小様々な古墳が今も多数現存しています。
(撮影:裏辺金好)

○場所



○保渡田古墳群



二子山古墳
墳丘の長さは約108mで、内堀と外堀を巡らせています。外堀まで含めた全長は約213m×173m(後方部付近)で、墓域の面積は約30000uという広大なもの。墳丘の頂上にある埋葬施設には、大型の船形石棺があります。また、内堀には祭祀場と思われる中島が4基配置されています。


二子山古墳(埋葬施設の表示)


二子山古墳(埴輪列と埴輪の立て直しの表示)
古墳には埴輪が垣根のように並び、邪霊が侵入しないように防御していました。ところが平坦面が崩れると、埴輪も倒れて、最悪の場合は割れてしまいます。この際、割れた埴輪を埋めた上で平坦面を造りなおし、使える埴輪は再利用、足りない部分は新造して並べなおしたことが、発掘調査の結果判明しました。つまり、一定の間は古墳をメンテナンスしていたようです。



八幡塚古墳
墳丘は全長96mで3段に造られ、内堀、外堀、外周溝がめぐり、墓域は190m×148mにも及びます。さらに内堀の中には祭祀場と思われる4つの島(中島)があるのが特徴です。
埴輪は6000本ほど設置されていたと考えられており、復元に当たっても出来る限り配置したようです。また、墓は後円部に2箇所設置されており、1つが古墳を造らせた豪族本人、もう1つがその近親者であると考えられています。


八幡塚古墳(舟形石棺)


八幡塚古墳(形象埴輪配列区)
この古墳には内堤の上に2ヶ所、人物・動物埴輪を置く形象埴輪配列区があり、各々約50体ずついます。


八幡塚古墳(中島)


保渡田薬師塚古墳
全長約105mで、内堀と外堀を巡らせています。御覧のとおり、かなり変形を受けています。


保渡田薬師塚古墳
舟形石棺が展示されています。

保渡田薬師塚古墳

保渡田薬師塚古墳
現在は西光寺の境内となっています。

○かみつけの里博物館


二子山古墳と八幡塚古墳の間にある展示施設

埴輪棺
5世紀後半のもので、円筒埴輪を墓に転用したもの。

竪穴系小石棺
6世紀前半のもので、小さいため子供の墓か、骨にしてから埋葬したなど、様々な説があります。


1500年前の風景
豪族の館である三ツ寺I遺跡と周囲の住居、保渡田古墳群などが再現されています。

三ツ寺I遺跡復元模型
歴史の教科書や資料集などで、よく登場する模型。日本で最初に発見された古墳時代の豪族の館跡で、最大級。上越新幹線と県道前橋安中線の交差部に位置し、新幹線建設の際に発掘されました。大変重要な場所ですが、今は新幹線や道路の下に埋め戻され、現地で視認することは不可能です。

 【国指定重要文化財】
保渡田薬師塚古墳出土品

八幡塚古墳の築造風景
築造は終盤戦で、葺石の設置や後円部へ石棺の搬入、窯場から円筒埴輪の納入が行われる様子が再現されています。



八幡塚古墳の築造風景

古墳時代のムラ
様々な遺跡の発掘調査を基に再現したもの。ムラには様々な形態がありますが、ここでは竪穴住居一軒に柵で囲まれた施設群(作業小屋、倉庫、家畜小屋)が附属する様子を再現。また、周りには畑が広がっており、ヒエ、アワ、キビなどの雑穀、イモや根菜などの野菜が栽培されていました。

古墳時代の水田
高崎市浜川町の芦田貝戸V遺跡の発掘調査をもとに、田植え前後の初夏の様子を再現。畳2枚ほどの大きさに小区画されたミニ水田が特徴。ちなみに、この場所は榛名山の噴火によって火山灰で埋もれたことから、古墳時代の水田跡が良好に保存されていました。


金張の履物
下芝谷ツ古墳から発見された、履けない靴。金メッキされた銅板4枚で造られ、忍冬唐草文や花文をデザイン。底にはガラス玉がつけられ、歩くことが出来ません。


様々な埴輪

↑ PAGE TOP