旧伊藤伝右衛門邸〜福岡県飯塚市〜


 飯塚や直方などの筑豊地方は、かつて日本有数の炭鉱地区で、当時「筑豊御三家」と呼ばれた麻生、貝島、安川に続いて、この屋敷の持ち主である伊藤伝右衛門は筑豊の炭鉱王と呼ばれた人物。

 この屋敷は、明治30年代後半に建築。1911(明治44)年に50歳の伊藤伝右衛門が、25歳年下の柳原Y子(あきこ/歌人・柳原白蓮として活躍、伯爵柳原前光の娘)と再婚するにあたって2階部分を増築しました。以後、昭和初期にも増築が行われ、日本庭園に面して4つの棟と3つの土蔵から形成されています。敷地面積約7570u、建物延床面積約1020u、そしてダイヤを象った欄間のステンドグラスや広大な回遊式庭園があり、当時の勢いが感じられます。

 さて、伊藤伝右衛門は柳原白蓮と約10年過ごしますが、伊藤伝右衛門には妾がおり、白蓮はこれに苦しみ、また文学に親しむ白蓮とほとんど親しまない伝右衛門と結婚生活がうまくいきません。そんな中、柳原白蓮は宮崎龍介(孫文の辛亥革命を支援した宮崎滔天の子)と恋に落ちて、大阪朝日新聞夕刊に公開絶縁状を掲載して駆け落ちします。これは社会に大きな反響を呼びますが、伊藤伝右衛門は彼女を訴えることなく(この時に生まれた子供の認否を確認する訴訟は起こしましたが)、彼女のために作った部屋はそのまま残されました。

 この波乱万丈の恋物語もこの屋敷を語るうえで欠かせないエピソードとなっており、部屋を見る上での見所の1つ。また、この屋敷は解体されるところを市民運動によって保存が実現したもので、現在は飯塚市有形文化財に指定され、飯塚市が管理・公開しています。

○風景


長屋門
福岡市天神町(当時)にあった別邸「銅御殿/あかがねごてん」から昭和初期に移築された長屋門。

正面玄関



伊藤商店事務所
大正初期の建築。



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