足利学校〜栃木県足利市〜


 日本最古の学校として知られる足利学校。その創建については、奈良時代の国学の遺制説、平安時代の小野篁説、鎌倉時代の足利義兼説など諸説あり、室町時代に関東管領の上杉憲実(1410頃〜1466年)が再興に尽力し、鎌倉の円覚寺から僧快元を庠主(しょうしゅ=校長)として招いたり、現在国宝に指定されている蔵書を寄贈するなど、繁栄の基礎を築きました。
 その後の戦乱の中でも多くの生徒を集め、戦国時代には北条氏政の庇護のもと、3000人もの学生数を誇るほど。1549(天文18)年にはイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と紹介するほど、その高名が知れ渡っています。
 江戸時代は徳川家康をはじめ、幕府の庇護を受けながら存続。1667(寛文7)年には足利藩主の土井利房が幕府や公卿大名の寄付を受け、翌年にかけて大修築を行います。一方、1754(宝暦4)年に落雷により御祈祷所、方丈、書院、庫裡などが焼失。次第に、上杉憲実が寄進した書物を見るための図書館的な性格を強めていきます。
 明治維新後に、足利藩は藩校として復興を図り、町民にも学校を開校し勉学の場としますが、廃藩置県により足利県(のち栃木県に統合)に引き継がれたのち、1872(明治5)年に廃校となり長い歴史に幕を下ろしました。
 その後、敷地の東半分は小学校に転用される一方で、旧藩士などの尽力で貴重な蔵書の散逸は免れ、1903(明治36)年に足利町(現・足利市)は足利学校遺蹟図書館を設立して蔵書の保全を行います。また、1921(大正10)年に足利学校の敷地と孔子廟や学校門など現存する建築物が国の史跡に指定されます。
 1982(昭和57)年には小学校が移転し、発掘調査等を経て史跡の復元作業を開始。1990(平成2)年に12月に江戸時代中期の姿に戻りました。
 2015(平成27)年には「近世日本の教育遺産群 ―学ぶ心・礼節の本源―」の1つとして、弘道館(水戸市)、閑谷学校(備前市)などと共に日本遺産に指定されています。
(解説&撮影:裏辺金好)

○地図



○風景


入徳門
足利学校への最初の門で、元々は1668(寛文8)年の創建。現在の門は明治中頃に裏門を移転修築したものと云われ、扁額「入徳」は紀伊徳川家第11代の徳川斎順(1801〜46)の書。


学校門
1668(寛文8)年築。扁額「學校」の文字は、同年に明の書家である蒋竜渓(しょうりゅうけい)が来日した時の書を、当時の江戸国史館助教授の狛高庸(こまたかやす)が縮模したもの。


杏壇門
1668(寛文8)年築。1892(明治25)年に学校西方からの火災で屋根、門扉が焼けたため修築。扁額「杏壇」は紀伊徳川家第10代当主の徳川治宝(1771〜1852)の書。



孔子廟
1668(寛文8)年築。正式には大成殿と云い、1535(天文4)年に造られた孔子座像を祀るほか、学校創始者とも云われる小野篁公像を安置しています。


庫裏
庠主や学生の日常生活の場として使われた場所です。



書院
8畳2間で、庠主の接客の場として使われました。また、秋には貴重な書物を虫干しする曝書が行われています。



衆寮
僧房または学生寮で、6畳に一間の土間がついて一部屋。学生が寄宿したと考えられています。

木小屋
牧や農具を置きました。

土蔵

裏門
一般の人や学生が出入りをした通用門。

南庭園

北庭園

遺蹟図書館
1915(大正4)年築。足利学校伝来の書籍の保存を目的としています。


足利学校代官 茂木家累代の墓

庠主の墓

松村記念館
1925(大正14)年築の古民家。足利学校のすぐ西側にあり、江戸期以降の文化人や政治家の書画、調度品、生活用品を展示しています。

大門通
この奥に行くと鑁阿寺(足利氏館跡)。これについては別ページでご紹介。


茂右衛門蔵

足利尊氏像

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