日本の旅 第70回
岐阜城・加納城と川原町の古い街並み〜岐阜県岐阜市

     A trip of Japan No.70 Gifu Castle, Kano Castle & Kawara-cho traditional area
○岐阜市の概要
岐阜県南西部の商工業都市で岐阜県の県庁所在地。1889(明治22)年に市制施行し、周辺の町村を合併しながら市域が拡大。1996(平成8)に中核市に移行。面積は195.12km2(一部境界未定)。人口は約40万人(2004年)。

3.江戸時代の中心は加納城
 さて、今度は場所を変えて岐阜駅の南方面、名鉄新岐阜駅から岐阜・市営バス城南通り下車徒歩5分にある加納城を御紹介しましょう。ここは、既に少し触れましたが主に江戸時代に使われた城。

 元々は、美濃守護代斎藤利永が築城しましたが、1538(天文7)年に廃城となります。関ケ原合戦後、徳川家康が岐阜城天守閣を移し再築したのですが、落雷により焼失しました。現在は本丸の石垣が残り、現在は城跡公園となっています。ちなみに岐阜は、江戸時代は基本的に宿場町のような形で街並みが形成されました。そのため、加納城周辺を見ても、あまり城下町という雰囲気はありません。

 城主は、初代が徳川家康の養女亀姫の婿、奥平信昌で十万石で入城。その後、大久保氏、松平(戸田)氏、安藤氏、永井氏と代わり最後の藩主は永井尚服となっています。いやあ、それにしても本当に本丸の石垣しかありません。しかし逆に考えれば、本丸の石垣はしっかりと残っています。財政に余裕があれば、こっちもきちんと復元すれば、新しい観光名所になると思うのですが。

 それから、 岐阜公園(岐阜城)にある歴史博物館に、加納城の資料や城全域の復元模型などが展示されているそうです。私は行かなかったのですが、こっちを見てから加納城に行くか、加納城に行った後に歴史博物館に行くか、悩むところですね。

4.もう一つの歴史の舞台・川手城
 さて、もう一つお城を見ましょう。川手城、もしくは革手城という場所です。
 加納城から南東にちょっとだけ歩きまして、川を渡ったところにあり、というか、済美女子高校にあるので、地図で確認して下さい。女子校の中にありますが、幸い、男性諸君でも堂々と閲覧可能になっています。女子が下校する時を狙わなければ、怪しまれることはないでしょう。でも、遺構は何もありません。

 ただし、歴史の舞台としては重要なんです。 
 この城は室町時代に美濃守護として当地を支配した清和源氏・土岐氏の城です。最初に登場しましたね。築城者は第三代守護の土岐頼康。城とは言いますが、実質的に御殿であり、また応仁の乱の後は沢山の貴族が移り住んだので、山口と共に小京都として発展。ところが1449年、家督を巡って土岐政頼と鷺山城主土岐頼芸が争い、川手城周辺は灰燼に帰します。

 結果、土岐頼芸が勝利し美濃守護の座に就きますが、それも斎藤道三に追い出される、と。

 斎藤道三もよくこの城に伺って、頼芸のご機嫌取ったり、利用したりという、ゆかりの城でして、この城から見える稲葉山城(後の岐阜城)をセットで見ると、ちょっと歴史を感じられます。左写真に2つ山が写っていますが、左の方が岐阜城だったはずです。

 斎藤道三も、この川をよく見ていたんでしょうかね。もちろん、コンクリートで護岸されていなかったはずですが。

5.鷺山城
 その斎藤道三。最初に述べましたが息子の斎藤義龍と戦をして殺されます。で、斎藤道三の最期の舞台となったのは、写真のように岐阜城の天守閣からも跡地が見える鷺山(さぎやま)城です。祟福寺の近くにあるそうで、私は時間の都合で岐阜城から見るだけにしました。

 この城は鎌倉時代には既に築城されていて、先ほどの土岐頼芸も川手城に移るまではここにいました。

 それにしても、小さい山です。稲葉山城を本拠に選んだ斎藤道三が、何故自分の最期をここにしたのか、解らないですね。もしかすると、もう死ぬ覚悟だったのかもしれませんね。なお、昭和39年に発掘された礎石を除けば、大した遺構はないようです。

6.廃止となった路面電車

見ていて安心感さえする昔ながらの路面電車。しかしご覧のように、非常に乗りにくいのが難点。

連接車体の新型車両も投入するも、車内はガラガラ。何とも勿体ない話です。

投入したばかりの超低床車両。しかし、時は既に遅く、乗客減には全く歯止めがかからず。

・・・。いやあ、なかなか凄い駅名ですね。

郊外では基本的に単線というのもネックか。しかしスピードは意外に出します。
 さて、岐阜と言えば路面電車も走っていま・・・した。残念ながら2005年3月をもって、その歴史に終止符を打ったのですが、経営していたのは、名古屋を中心とした鉄道網を形成する名古屋鉄道で、大正生まれの旧型から最新の超低床車両まで実に多彩な車両が走っていたのですが・・・、2000年ごろより、急激に乗客数が落ち込み、(路面電車嫌いの)行政からの支援も満足に受けられない状況で、とうとう経営から手を引いてしまったのですが、人にやさしいとして近年路面電車が見直される中、支えきれなかったのは凄く残念。

 ただし。
 まず、本数が20分や30分に1本と、他都市の路面電車に比べて非常に少ないのが、問題。それから、1枚目の写真を見て頂ければ解るのですが、電停が「ある意味でバリアフリーすぎる」のが問題。つまり、普通は電車に乗る場所って、道路よりも一段高くなって、きちんとホームとして整備されているのですが、こちら、ただ緑色に塗っただけ。気を付けておかないと、車も走ってしまいます。

 これでは、老人も安心して乗れませんがな。
 また、1988(昭和63)年に市役所、大学病院、岐阜城近くに向かう路線を廃止してしまったことも今になって大きな損失に繋がっているのでしょうね。

 せっかく新型車両も数多く投入しているのですから、何とか再起して欲しかったのですが、既に今までの車両は福井鉄道や豊橋鉄道などに譲渡されました。同じような危機に立たされた富山県高岡市の路面電車は、行政と民間の第三セクターに運営が移管されていますが、こちらは今後、再起の道は絶望的に近いようです。

 つまるところ、戦後になって岐阜市によって一貫して「車の邪魔だから、出来ることなら廃止してくれ」と虐められ続けた路面電車。外国企業が後継に名乗りを上げていますが、ここまで不便な路面電車。中心市街地の魅力が失われている現状と、駅前の通りの道路が狭いこともあって車利用客からは路面電車に対する不満も多く、さらに大半の市民が利用していないことがあり、存廃への関心も今ひとつだったことも災いしたようです。

 名古屋鉄道側は廃止を目前に、路面電車にリバイバルカラーを施すなど、最後の花道を飾るべく色々な施策を行っています。さぞかし、廃止は無念だろうと思われます。

7.近代建築
 最後に近代建築。
 1つは、旧岐阜県庁舎(岐阜県総合庁舎)。1918(大正13)年の建築で、たしかに元・県庁にふさわしい、堂々たる構えです。写真は正面から撮ったので解りませんが、奥に長いので、それはもう壮観な建築です。

 ただ、見れば解りますが所々黒ずんでいるのが残念。
 きちんと磨き、白亜の殿堂みたいな感じになると、非常に立派で格好良くなると思います。というか、近代建築って、そんなのばかりですね。もっと積極的に手入れをして、活用して欲しいと心から思います。

 もう1つは、旧岐阜貯蓄銀行(十六銀行徹明支店)。1937(昭和12)年の建築で、よくあるタイプの銀行建築に、ちょっと手が加えられているかなといった感じです。こちらも、きちんと磨けば、重厚さが増すと思うのですが。

 と、こんな感じで岐阜市の紹介は終わりです。
 この他、岐阜市内には織田信長と斎藤道三が会見をした正法寺など、お寺に幾つか見所があります。かつて斎藤道三が、織田信長が、夢をかけた岐阜の観光。なかなか歴史ロマンを感じられるので、歴史好きにはまさにうってつけと言えるでしょう。