日本の旅 第71回
異国情緒の長崎市〜長崎県長崎市
     A trip of Japan No.71 Nagasaki City
○長崎市の概要
長崎県南部の港湾・商工業都市で長崎県の県庁所在地。1889(明治22)年市制施行。面積は241.21km2。人口は約42万人。市街地は狭い平地から丘陵部に広がるため、坂が多いのが特徴。また、市内には数々の洋館・近代建築が残り観光地として人気。

4.出島地区

出島に来た人なら一度は見たことがある、かつての出島を15分の1サイズで表した模型。

現在の出島とかつての出島の比較を表した図。
出島の表門(復元)本来の位置はもっと手前(水がある部分)。最終的には完全に復元するらしいので、その時には正しい位置に移築されると思います。
 次の御紹介するのが「出島」。
 日本史の授業で、鎖国政策とセットで覚えさせられたのを覚えている人、目下覚えている最中の人、色々いると思います。まさか、「なにそれ、しらな〜い」という人はいないでしょうね。

 その出島の歴史ですが、まず造られたのが1636(寛永13)年のこと。キリスト教を布教されないよう、ポルトガル人を収容するために「出島町人」と呼ばれる豪商25人に人工島を造らせたのです。

 元々は出島という名前ではなく、海を埋め立てて築いた島=「築島(つきしま)」、または形状が扇型をしていたことから「扇島」と呼ばれていました。で、3年後にはポルトガル人は全て国外追放に。早速無人島になった出島は、1641(寛永18)年には平戸からオランダ商館が移転され、日本の数少ない対外窓口としての役割を担うことになります。

 そんな出島は、なんと1810年〜1815年、世界で唯一オランダ国旗を掲げている嶋になってしまったことがあります。一時的にオランダ本国がフランスに占領されてしまったんですね。困ったのは出島のオランダ人達で、本国からの補給が来ない。そこで、幕府が意外と面倒をよく見て、食料品などを供給したそうです。それでも生活は苦しかったそうですが。

 そして幕末になると、出島も終焉の時期を迎えます。
 1856(安政2)年、日蘭和親条約が締結されてオランダ人達は出島に閉じこもる必要が無くなりました。そして、出島の周辺の埋め立ても始まり最終的には1904(明治37)年の港湾改良工事で、あの特徴的な扇形の島は姿を消してしまったのです。

 しか〜し、もう早速大正11年には国の史跡に指定。そして昭和26年には長崎市が復元整備計画に着手し、翌年から復元工事を開始。そこからが長い道のりなのですが、ついに平成8年からは本格的な復元整備事業を開始。

 平成13年には民有地のすべてを公有化し、今後は完全に出島の姿を復元するそうで、現在着々と建物の復元が進行中。あっという間にこのコンテンツも古くなることでしょう。

 最終的には、既存の建物・道路・市電などの移設も伴うことになりますが、完全復元の日が待ち遠しいです。それでは、昔から出島に残る建物、平成16年までに復元された建物を御紹介していきましょう。それぞれの建物で、非常に充実した展示がなされています。


ヘトル部屋
ヘトル(商館長次席)の住まいとして使用されていた建物。 屋根を見ると、ちょっとした物見台があるのがお解り頂けるかと思います。

一番船船頭部屋・一番倉・二番倉
一番船船頭というのはオランダ船船長の宿泊所および商館員の住まいとして使用された建物。そして隣がそれぞれ一番倉(砂糖などを貯蔵)、二番倉(輸入品の蘇木(そぼく)=染料に使った木を保管する倉庫)です。
料理部屋
その名の通り、料理をする建物。料理人は日本人だったそうです。
料理部屋 (内部)
その建物の内部。
旧スチウト商会倉庫(出島シアター)
1865(慶應元)年に造られた倉庫を復元した物。
旧出島オランダ屋敷跡石造倉庫(出島史料館分館)
ま、その名の通り倉庫です。幕末〜明治にかけての物を復元したそうです。
出島内外クラブ(長崎市立博物館) 
1897(明治37)年建築。外国人の親睦を図るクラブで、その後朽ち果てていた物を2000年に大改修。昔見たことある人なら、「あれっ?」と驚くはず。
旧出島神学校(出島史料館分館本館)
1877(明治10)年建築。出島に造られた日本初のプロテスタント系の教会に隣接して造られた神学校。ただし教会の方は取り壊され、その後宣教師宿舎部が増築されたとか。


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