日暮里・南千住を歩く〜東京都荒川区〜
○幕末の志士が眠る回向院
さて、JR常磐線で日暮里、三河島と続きまして南千住駅で下車。ほんの少し歩きますと、一見したところ、ただのコンクリートの建物があります。それが、回向院。幕末の安政の大獄や桜田門外の変・坂下門事件などで処刑された人たちが眠っている場所です。例えば、橋本左内。それから、吉田松陰(のち太夫山(世田谷区若林の松蔭神社)に改葬)などですね。それから、鼠小僧の墓などもあります。
回向院
古いお寺を想像していくと迷いますので、ご注意あれ。
橋本左内の墓
回向院入り口脇にあります。
吉田松陰の墓
前述のように改葬されているため、現在は祈念碑的存在。
鼠小僧などの墓
左から順番に、鼠小僧、直侍、高橋お伝、腕の清三郎の墓。
鼠小僧以外はよく解りませんが、腕の清三郎の墓の形は必見ですね。腕というか、拳じゃないか!
○解体新書発祥の地・小塚原刑場跡
さて、江戸時代に罪人を処刑する場所(お仕置き場)というのが品川の鈴ヶ森と千住の小塚原(こづかっぱら)の2ヵ所にありました(江戸の両御仕置場)。当然、ここで御紹介するのは千住の方です。明治のはじめに刑場が廃止されるまでに斬罪・磔(はりつけ)・獄門などの刑が執行され、何と20万人あまりが処刑されたとか。ブルブル・・・。
で、ここで杉田玄白・前野良沢達は人体の解剖を見ます。そして「今まで読んだ本とは全然違っているではないか!」と奮起し、蘭学書である「ターヘル・アナトミア」の翻訳を四苦八苦しながら行い、「解体新書」を完成させるのです。
現在は延命寺となっており、境内にある首切り地蔵は刑死者の菩提を弔うために、1741(寛保元)年に建立されたもの。ちなみに、刑死者を埋葬し、霊を弔うためにあるのが、先ほど御紹介した回向院。常磐線のガードをはさんで向かい側にあります。延命寺の場所は南千住2−34−5
ちなみに回向院には、解体新書発祥の地である記念レリーフがありますが、延命寺自体はコンクリート製の近代的な建物で、両方ともあんまり歴史が感じられないのが残念です。でも、処刑場の再現も怖いですし・・・(笑)。微妙なところです。
○円通寺の黒門(元・寛永寺の黒門)
円通寺黒門
東京都荒川区の円通寺。ここの黒門こそ、上野戦争で激戦となった寛永寺の黒門を移築したもの。彰義隊の戦死者達は「賊軍」として扱われたため、戦死したあと遺体が放置されていたのですが、このお寺の和尚さんが死を覚悟で供養したとか。
おかげで政府に拘束されましたが、幸いにも許され、上野寛永寺御用商人の三河屋幸三郎の助力で、彰義隊の戦死者達を火葬し、ここに埋葬。これが縁となって1907(明治40)年、寛永寺の黒門(荒川区指定有形文化財)は円通寺に移されることになったということです。
今も弾痕が残る円通寺黒門
○千住大橋
千住大橋
1927(昭和2)年築(※写真の下り側鉄橋)で、ブレースドリブ・タイドアーチ型の鉄橋。
足立区と荒川区をまたがる千住大橋は1594(文禄3)年、徳川家康が江戸に入って初めて隅田川に架橋したものです。余談ですが、元々は足立区側に設けられた千住宿は、多くの人でにぎわったことから千住大橋を越えて荒川区側の小塚原町・中村町まで宿場町が拡大し、千住下宿と呼ばれます、さらに、明治時代に千住宿南組と呼ばれたことが、現在の南千住の地名の由来となっています。
○都電の終点・三ノ輪橋駅付近
さて、円通寺から日光街道沿いに真っ直ぐ歩いたところ、都電荒川線の終点である三ノ輪橋駅(停留所)があります。ちょっと覗いてみましょう。
三ノ輪王電ビルデイング(現・梅沢写真会館)
ここの1階をくぐると、都電三ノ輪橋駅と商店街へいけるという面白いビルで、1927(昭和2)年1月の竣工。
それもそのはず、これは元々、都電荒川線の前身である王子電気軌道のターミナルビルだったのですね。
レトロ調に改装された、三ノ輪橋電停
唯一残った都電。ここから王子、池袋付近を経由して早稲田まで行くのですから、唯一とはいえ、相当な距離です。
しかし、いつまでも「昔懐かしの」では勿体ない、ヨーロッパ並みに路線の延長やスピードアップにも期待したいところ。
○同潤会三ノ輪アパート
同潤会の三ノ輪アパートメント
三ノ輪橋駅からさらに歩き、JR常磐線の高架もくぐって、散々迷った末にたどり着いた、同潤会の三ノ輪アパートメント(1928(昭和3)年築、所在地・東日暮里2丁目)。
同潤会については何度か取り上げましたが紹介しておくと、関東大震災後の災復興計画に関連して、鉄筋コンクリートを使用した地震や防災に強い集合住宅を造った組織です。造るにあたっては色々と理想も入れていったのが特徴ですが、ともあれ、その強固さは今も残っていることで証明。
同潤会の三ノ輪アパートメント
しかし、特に2000年代に入って各地の同潤会アパートの解体が進み、こちらも2009(平成21)年に解体されました。