急行【だいせん】


夜があけて終点に到着した「だいせん」。末端区間は快速運転。
(写真:米子駅/撮影:デューク)

●基本データ

登場年:1968(昭和43)年←なお別ルートでは昭和33年
運転区間:大阪(新大阪)〜米子(浜田・大社・出雲市・鳥取)
使用車種:PC20系・PC12系・PC14系・キハ58系(その他雑客)

●列車の解説

 もともとは伯備線経由で山陰西部を結ぶ準急列車だったが、昭和33年に急行となる。その後、昭和43年に急行「白兎」の大阪編成を独立させた上で、列車名が「だいせん」となり、現在にまで受け継がれるルートが確立した。それまでの「だいせん」は「おき」となった。ちなみにこの「おき」はその後キハ181系化され特急となり、翌年に岡山〜出雲市・益田間の「やくも」となるわけで、「だいせん」は現在の「やくも」系統の列車の始祖に当たるわけだ。

 「だいせん」は気動車と客車によって運転され、最盛期は4往復を数え、西は益田まで運転される山陰地方を代表する急行列車となった。しかし、昭和50年代に入ると利用客が少しずつ落ち込み始め、それに合わせるかのように両数の減少していった。しかし、鳥取〜松江間などは需要旺盛で混雑が激しくなるという現象も発生した・・・らしい。

 そして、1986(昭和61)年11月のダイヤ改正で昼行列車は全廃となり、夜行列車についても寝台車は20系から14系にグレードが上がった。なお、20系客車を使用した最後の定期列車はこの「だいせん」であった。

 1往復だけが夜行で残った状態でJR化を迎えるがその後は大きな動きもなくしばらくは安泰であったが、1999(平成11)年に客車から旧「エーデル鳥取」用のキハ65形に置き換えられた。運転区間も急行区間こそ変わらなかったが、末端の快速区間は米子まで短縮された。

 すでに急行列車自体が希少になってしまったが、唯一の気動車夜行急行として孤軍奮闘してきたものの、利用率は振るわず、ついに2004(平成16)年10月のダイヤ改正でお役御免となった。これで、山陰系統の急行列車は全滅となった。

●ギャラリー


国鉄時代のキハ58系による急行「だいせん」。※1981年撮影
(写真:福知山線 生瀬〜武田尾/撮影:ひょん君)

同じくキハ58系急行「だいせん」。※1981年撮影
(写真:福知山線 生瀬〜武田尾/撮影:ひょん君)

廃止を目前に控えた頃、14系によってリバイバル運転も行われた。
(写真:東海道線 大阪駅/撮影:U-SUKE様 禁転載)

 米子駅の留置線にたたずむ「だいせん」。なんと、展望車が連結されていない編成。まあ、どうせ運転時間帯は深夜だから展望車があろうとなかろうとたいして変わりはないんだろうけど。
 これだけ見てるとキハ58系譲りの前面が見えて急行だなぁって感じですね。そのへんの塗装変更した58系と変わんないし。あっ・・・でも種別表示は快速になってるか・・・
(写真:米子駅/撮影:デューク)

 深夜の福知山駅で停車中の「だいせん」。このあたりまで来ると通勤に使用している人はいない。みんなだいたい寝ているようで静かだ。もっとも深夜活動組もいるので静寂が・・・というわけではない。夜行列車とはいえ、2両編成は少しさびしい・・・
(写真:福知山駅/撮影:デューク)

 リバイバル急行「白兎」と並んだ「だいせん」。もう、二度と見れない組み合わせ。「だいせん」はいつもの場所にたたずんでいたようだが、リバイバル「白兎」の編成がやってきてしばらくこの状態が。この2列車はどんな言葉を交わしたのだろうか。
(写真:米子駅/撮影:デューク)

 行先表示サボのアップ。キハ65を大幅に改造した車両のはずなんだけど、行先表示サボは健在だった。これがあると国鉄型ってわかる。さて・・・いつまで見れることやら・・・と思っていたら、あっさりと列車自体が廃止となってしまった。
(写真:米子駅/撮影:デューク)  

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