大日本史年表(江戸時代1)
1603年 家康、征夷大将軍に。江戸に幕府を開く。
(写真:現在は皇居となっている江戸城)
1604年 白糸<生糸>の輸入法制定。
→( 糸割符 )制度のはじめ。
1606年 ( 角倉了以 )が山城の大堰川の水路を開く。 以後、彼がこういった事業に大活躍。
1607年 朝鮮から初めての通信使が日本へ来る。
以後、( 将軍の代替わり )ごとに来る。
1610年 通商を求め、京の商人( 田中勝助 )を
メキシコ( ノビスパン )に派遣。
1612年 伊達政宗、家臣の( 支倉常長 )を
ヨーロッパに派遣。
キリスト教の禁止。
1614年 大坂冬の陣。家康、豊臣家に対して攻撃開始。
1615年 大坂夏の陣。豊臣家滅亡。
一国一城令。
武家の規則を定めた( 武家諸法度 )、公家の規則を定めた
( 禁中並公家諸法度 )を発布。
1616年 家康没。すでに2代将軍となっていた秀忠が、やっと実権を持つ。
1619年 御三家の完全成立。すなわち、( 尾張 )・( 紀伊 )・水戸の3家で、将軍家に跡継ぎがいない場合は
ここから出すことになった。
堺の商人が( 菱垣廻 )船を開始。
1623年 イギリス、対日本貿易をやめる。
1624年 スペイン船の来航禁止。
1633年 鎖国令。老中奉書を持った( 奉書 )船以外、海外渡航を禁止。
1635年 武家諸法度の改正。大名は1年おきに江戸に来なけらばならない、
( 参勤交代 )制が定められる。
1637年 ( 島原 )の乱。( 天草四郎時貞 )率いるキリシタン農民が反乱。
1639年 鎖国令。今度はポルトガル船の来航禁止。
1641年 オランダ商館を長崎の( 出島 )に移す。鎖国の完成。
だが、実際には中国や朝鮮、そして琉球との交易があり鎖国ではなかった。
1643年 ( 田畑永代売買の禁 )が出され、田畑の売買が禁止になる。
1649年 農民に対して生活や仕事の規範を示した( 慶安の御触書 )が出される。
ただし、この時期には出されていないとの説も有力。
1651年 3代将軍家光没。浪人の( 由井正雪 )の乱。
1671年 宗門改帳作成。
( 河村瑞賢 )、東廻り海運開設。翌年、西回りも。コースを覚えておこう。
1685年 5代将軍徳川綱吉、お母さんの発案で生き物を大切にしすぎなさいという( 生類憐れみ )の令をだす。
1688年 ( 柳沢吉保 )が側用人となり権勢を振るう。
1694年 ( 江戸 )に十組問屋が成立。( 大阪 )に二十四組問屋が成立。
1695年 綱吉が金を浪費するため、そして金銀の産出量が減り幕府の使える金が減ったため、( 荻原重秀 )
が質の悪い元禄金銀を鋳造し、その分貨幣の量を増やした。
ただし、幕府の財政は一時的に好転したもののインフレが起こる。当たり前じゃ。
1709年 徳川家宣が第6代将軍に就任。新井白石の登用。( 正徳 )の治のはじまり。
オランダ人宣教師シドッチ、屋久島に漂着。( 新井白石 )が彼を尋問し、シドッチから聞いたことを元に
( 西洋紀聞 )という書物を記す。
1710年 貿易の新たな指針を定めた( 海舶互市新例 )<長崎新例>がでる。
1716年 7代将軍、徳川家継が亡くなり、徳川将軍家の血筋が絶えたことから、
紀伊家の( 徳川吉宗 )が8代将軍に就任。
1717年 大岡忠相(越前)が江戸町奉行に登用される。江戸町奉行とは東京都知事のようなもの。
1719年 金銭関係のトラブルの訴訟お断りという( 相対済まし )令がだされる。
1721年 豊作でも凶作でも年貢は一律よ、という( 定免 )法が制定。実質的に年貢率アップ。
1722年 幕府、財政危機により諸大名に石高に応じて米よこせと( 上げ米 )を命じる。
その代わり諸大名には江戸にいる期間を短くすることを許す。江戸滞在にも結構お金がかかるんです。
1723年 役職に就くために必要な家禄が、在職中なら支給され、実力にあったポストに就くことができる
( 足高 )の制を定める。
1729年 太宰春台が( 経済録 )を著す。幕政に専門官僚制、能力主義の導入、留守居役の廃止などを求める。
一方で、老荘のように時には無為も大切とも説く。
( 石田梅岩 )が京都で心学の講席を開く。心学は、心の修練を目的とした禅と陰陽道の融合だが、
一方で農工商の3身分の重要さも説く。そのため睨まれやすかった。
1732年 ( 享保 )の大飢饉がおこり、( 西国 )地域を中心に大凶作となる。
1742年 裁判の規範を示す( 公事方御定書 )が制定される。
1758年 清水家ができ、それ以前にできた田安家・一橋家と合わせて御三卿が成立。
→御三家に代わり、吉宗の血統を将軍家に継がせるための新たな家。
1759年 ( 山県大弐 )が「柳子新論」で幕政を批判。67年に彼は処刑される。
1765年 ( 鈴木春信 )が錦絵を始める。
1771年 ( 与謝蕪村 )・池大雅の2人による「十便十宜図」が描かれる。
1772年 田沼意次が老中に。賄賂政治を行ったといわれるが、保守派による、彼の重商主義政策への批判・デマともいわれる。彼は印旛沼の干拓を行ったり(但し失敗)、長崎俵物会所を設置しうまく貿易を行い、また株仲間を公認する代わりに運上金・冥加金を納めさせることで幕府の収入を増やした。さらに北防のため最上徳内らを蝦夷地の調査に向かわせたり、平賀源内らを保護し学問の充実をさせた。が、浅間山噴火など天災が重なり、飢饉も発生。人々の支持を失い、それみたことかと保守派により失脚させられた。
1775年 危機的財政状況の米沢藩において藩主の( 上杉鷹山<治憲> )が改革を本格的にスタート。
1782年 天明の大飢饉が起こる(〜87年)
1783年 ( 司馬江漢 )が銅版画を創製する。