第1回 ウィルソン大統領と第一次世界大戦
○はじめに
良くも悪くも、アメリカ合衆国というのは世界の超大国。その外交政策の1つ1つ、文化の発信などは世界に大きな影響を与えています。その一方で、アメリカ合衆国という国が、どのような経緯をたどってきたのか知っている方は、あんまりいらっしゃらないと思います。裏辺研究所(歴史研究所)では、何故かソ連・ロシアを除き、今まであまり現代史を触れてきませんでしたが、通史の執筆をゆっくりやっていると、まだ当分、現代史にたどり着くまで時間がかかりそうなので、ここで一気に、アメリカ合衆国の現代史、主に外交の歴史を中心に見ていこうと思います。私を含め、若い世代にはあまりなじみのない、昔のアイゼンハワー大統領、ケネディ大統領だとか、そしてヴェトナム戦争など、色々と解りやすく詳しく、お伝えしていきます。
で、どの辺から執筆しようかと思ったところ、何かとイラク問題で話題を集めた国際連合。その全身である国際連盟の創設を提唱しながら、自らのアメリカは加盟できなかったウィルソン大統領に白羽の矢を立てることにしました、戦後とは言いますが、ここは第一次世界大戦勃発少し前からの、ウィルソン時代から、見ていくことにしましょう。
○ウィルソン大統領って何者?
W.ウィルソン(1856〜1924年)。1913〜21年にわたって、アメリカの第28代大統領を務めた人物です。彼は、アメリカ南部ヴァージニア州スタントンで、キリスト教長老派の牧師の子として生まれました。そして、ニュージャージー大学(現プリンストン大学)とヴァージニア大学で勉学に励み、ジョージア州アトランタで1年間、弁護士を開業します。ところが、さらに ジョンズ・ホプキンズ大学に入学し、1886年に政治学の博士号を取得します。政治学というのは話せば長くなりますし、時代によって概念も変わるのですが、簡単に言ってしまえば世界の政治システムの研究や、この時代より後になると、心理学など様々な側面から人々の行動を観察する学問です。もちろん、こんなに単純化してしまうと、相当な批判もあると思いますが・・・。
で、1890年には母校プリンストン大学の教授に就任し、何と2年後には学長に。ところが、大学院設置など大学改革に燃える彼は「強引だ〜」と反感を買って、1910年に学長を辞任しました。そして、その年のうちに民主党かららニュージャージー州知事選挙に立候補し当選。ここでも改革に着手し、政党有力者の権限を縮小したり、労働災害補償などの法律を制定しました。ちなみに、アメリカの各州は、1つの国に近い存在ですので、このように自分のところで法律を作ります。 そして、またその2年後。民主党から大統領候補として立候補。共和党のタフト大統領、新たに結党された革新党で、元・大統領のセオドア・ルーズヴェルトを僅差で破り、見事大統領となったのです。
○ウィルソン大統領の外交
ご存じと思いますが、彼は一種の理想主義者でした。内政面に於いては、例えば大企業の抑制強化、連邦取引委員会設立、農家への政府融資と出荷援助の保証、鉄道労働者の8時間労働、児童の労働禁止の法律(だが、最高裁判所によって無効とされる)、ブランダイスという法律家をユダヤ人でありながら、初めて最高裁判所判事に任命するなど、極めて自由主義的な改革を行います。当然、この理想主義は外交の面でも現れます。
彼が最も重視したのが、民主主義でした。世界の民主主義と平和を実現する。それが、アメリカの信念であり、アメリカは模範となるべしと彼は強く確信していたのです。ですから、この時期、革命によってメキシコと中国で、それぞれ新国家が誕生しますが、2つの国家で対応を異にします。
メキシコの方は、独裁者ディアスがマデロ将軍による革命で追放され、そのマデロはウェルタ将軍に殺害され独裁政治が行われるという状況になるのですが。ウィルソン大統領は民主主義国家ではないとしてこれを認めず、それどころか内戦に介入します。一方、孫文によって革命が成功し、三民主義(「民族」の独立,「民権」の伸張,「民生」の安定)を掲げた、中国の中華民国は国家として承認するというようになったのです。中華民国は・・・この後、袁世凱政権の独裁によって、ズタボロになっていくんですけどね。メキシコ革命を含め、これらはまた現代史を正式に扱う時に詳しく書きます。