第9回 ヴェトナム戦争と歴代政権の対応

アメリカに衝撃を与えたヴェトナム

 第2次世界大戦は、アメリカにとって輝かしい、自由と民主主義を守る戦争として記憶されました。
 ですから、原爆投下の是非を問おうものなら、相当な反発をいただきます。ですが、今から述べるヴェトナム戦争。これは、アメリカ史上例を見ない、泥沼化した、出来れば忘れたい(けど亡くなった人のことは記憶したい)、そして戦術面に於いては今でも「ヴェトナムの二の轍を踏むな」、そして何かとヴェトナムに従軍した経験が社会的な立場で問われるなど、退役軍人会共々、大きな影響を与え続けています。大統領選挙でもよく聞きますね。

第1次インドシナ戦争

 第2次世界大戦後、日本がヴェトナムから去った後、この地域は北がホー・チ・ミンによる北ヴェトナム、南が、元々インドシナ半島を植民地として支配したフランスが擁立した、バオ・ダイ皇帝(グエン<阮>朝最後の皇帝)による南ヴェトナムに別れて争います。1954年にジュネーブ協定が結ばれ、一応フランスと北ヴェトナムの戦いは終わったのですが、バオ・ダイ皇帝とアメリカはこの決定に不服。引き続き、戦争は継続していくことになります。

第2次インドシナ戦争(ヴェトナム戦争)へ

 アイゼンハワー大統領は、南ヴェトナム政府に対し経済援助と、軍事顧問団を派遣することで積極的に援助。よく勘違いされますが、ヴェトナム戦争は、過度に介入はしたものの、基本的にはアメリカVS北ヴェトナムではなく、あくまでも北VS南の戦いです。

 さて、1955年に国民投票でバオ・ダイ皇帝はゴ・ディン・ジェムに敗北し、亡命します。ゴ・ディン・ジェムは大統領になって南ヴェトナム共和国を建国。アメリカの支援を盾に、ジュネーブ協定で定められた南北統一選挙は実施しませんでした。選挙で、ホー・チ・ミン派が勝ってしまうことを恐れたのです。このゴ・ディン・ジェムはキリスト教徒で、仏教徒を弾圧し、中には焼身自殺をして抗議したお坊さんもいます。どうもアイゼンハワー大統領は、この男を好かなかったようですが、次のケネディ大統領はウマがあったらしく、柔軟反応戦略の考えの下、さらなる支援を行います。

 1955年、ケネディはMAV(在ヴェトトナム軍事顧問団=Military Advisors in Vietnam)を派遣。これは、アメリカの軍人が、一度アメリカ軍を離れ、南ヴェトナム軍に編入された上で彼らに軍事的な技術を指導していきます。さらに、日々の命令も現地軍に従います。

 一方の北ヴェトナム政府は、南ヴェトナム地域に「南ヴェトナム解放戦線」を結成。紛らわしいですね、北が作った南を奪取するための組織です。アメリカには、ヴェトコン(ベトコン)という蔑称で呼ばれました。そして激化する戦いの中、ケネディはより一層、南ヴェトナム軍を支援するために、MAVをMACV(在ヴェトナム軍事援助司令部=Military Assitance Command in Vietnam)に改組。見れば代わりますが、Advisors から Assitance へと協力の度合いが増します。今度は、現地軍には編入されないで、直接アメリカ大統領の指揮で、南ヴェトナム軍を支援します。

 この他、これはヴェトナム戦争に限った組織ではありませんが、ケネディはアメリカ陸軍特殊部隊(U.S.Army Special Force)、通称「グリーンベレー」を結成。従来の正規軍とは違い、情報収集、相手の撹乱(かくらん=混乱みたいな感じ)など、様々な特殊戦略に対応する部隊で、今では珍しくないですが、彼らは緑色のベレーをかぶってケネディに謁見。正装ではなかったのですが、ケネディが気に入ったため、以後、このスタイルになります。

 ケネディがこれ以上、戦争を拡大しようと考えていたかどうかは、暗殺されて亡くなったために、よく解っていません。ケネディ支持者は「ケネディは、この後、戦時体制を縮小しようと考えていたんだ」と擁護しますが、どっちにしろ、ヴェトナム戦争は拡大していきます。

 なお、1963年11月、独裁を強めるゴ・ディン・ジェム政府は、アメリカの支持で行われた軍事クーデタで崩壊し、政治顧問だったジェムの弟ゴ・ディン・ニューと共に殺害されます。代わって、ズオン・バン・ミン准将が臨時政府を樹立。しかし、その後も政情は不安定で2年弱の間に13回のクーデターが発生し、9回も内閣が交代。65年のグエン・バン・ティエウと、グエン・カオ・キ両将軍の時にようやくやや安定し、67年9月の選挙によってグエン・バン・ティエウが大統領となりました。

ジョンソン政権と1968年


 暗殺されたケネディに代わって、63年、副大統領のリンドン・B・ジョンソン(1908〜73年)が大統領に昇格します。ジョンソンは、内政面に於いては、歴代政権が出来なかった黒人差別を禁じる公民権法の制定など、多大なる功績を残しましたが、ヴェトナム戦争介入を本格的に行ったことで、歴代大統領の中でも人気が非常に悪い大統領になってしまいました。

 1964年8月2日。アメリカの駆逐艦マドックスが北ヴェトナムの小さい船と(威嚇射撃程度ですが)交戦しました。8月4日も再び攻撃を受けたとして、この「受けたとして」というのがミソで、後に虚偽であることが解るのですが、ジョンソン大統領は報復攻撃を指示。議会もヴェトナム政策は大統領に一任するという、トンキン湾決議を行います。まさか、このまま泥沼の戦争になるとは考えていなかったようで、後にこの決議は議会で問題になります。なお、ご覧のように、宣戦布告そのものは一切ございません。誰でしょうね、真珠湾を奇襲として非難しているのは。

 そして、1965年。北ヴェトナムに対し、北爆と総称される定期的な空爆を開始したほか、アメリカ正規地上軍が派兵されます。年の暮れには、何と20万人にも達します。一時は、和平への道も探りますが失敗。戦いは長期戦に突入しました。って、もうとっくにしてはいるんですけどね。

 当初は、なに、直ぐ終わると楽観的だったので国民世論も好戦的だったのですが、物量に頼る、アメリカのウェストモーランド将軍の消耗戦略は外れ、死者の数は増える一方。次第に、ヴェトナム戦争に懐疑的な味方が広がり、そこに大事件が発生します。それは、北ヴェトナム軍による1968年のテト攻勢です。
 
 ウェストモーランド将軍は、「敵はラオス経由でサイゴン(南ヴェトナムの首都。現ホー・チ・ミン市)へせめてくると考え防御していたところ、何と南ヴェトナムで一斉に、しかも旧正月(テト)は戦わないという、暗黙の了解があったのにもかかわらず、一気に南ヴェトナム中で戦闘が始まりました。まさか、なんで? といったところです。それほど、北ヴェトナムの勢力は、既に南ヴェトナムの内部に浸透していたのです。

 結局、北ヴェトナムの作戦は失敗し敗退はするものの、アメリカ中に衝撃を与えることに成功。この頃、なんと53万5000人も兵力が派遣されていて、いよいよ徴兵を免除されていた学生にも、徴兵の手が伸びてきていたこともあって、一気に反戦ムードが高まります。ジョンソンは民主党ですから、民主党がシカゴで全国大会を開いた時は、学生反戦運動などによる大暴動になりました。また、メディアも若い世代が現地から報道をするので、今までとは違った視点から放送するようになります。こういう事って重要ね。

 そうそう、このヴェトナム戦争は、まだ技術が未発達で数時間遅れではありますが、アメリカに戦闘の模様が中継されます。むしろ、時差がありますから、アメリカの昼に、ヴェトナムの昼に撮影された衝撃的な映像が流れるので、影響力は抜群でした。なお、初めてちゃんとライヴ映像が流された戦争は、湾岸戦争になります。

 ジョンソンは再び和平の道を探ります。68年3月31日、北爆の部分的停止が表明され、5月には北ベトナムとアメリカの和平会談がパリで開催。さらに北爆は10月に全面停止されました。さらに、和平会談は69年に南ヴェトナム政府と解放戦線と共に行われ、、6月には解放戦線が南ヴェトナム共和国臨時革命政府を樹立することになります。ところが、戦争はまだ終わらないんです。


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