中国史(第10回 唐と国際文化)
○国際色豊かな唐
さて、ここで唐の時代の文化を見ていきましょう。唐の文化の特徴は、1つは、それまで北朝で培われてきた剛健な文化、それから南朝で培われてきた華麗な文化が融合したことが挙げられます。2つめは、日本からは遣唐使が派遣されたように、唐は外国との興隆を広く持ち、各国の文化が流入し著しく国際的になったことが挙げられます。もちろん、唐から諸外国に与えた影響も大きいものでした。
詩は現在でも数多くが読み継がれているように、唐の中期に活躍した王維(699頃〜761年)・李白(701〜762年)・杜甫(712〜770年)、それから末期の白居易(白樂天 772〜846年)が特に有名です。このうち杜甫と言えば「国破れて山河あり、城春にして草木深し・・・」で有名ですね。まあ、詳しくは漢文の時間に勉強してください。ちなみに白居易は、日本の平安貴族の間で大ヒットしました。
また、遣唐使として唐に来て、玄宗皇帝のお気に入りとなり、そのまま唐の役人になった阿倍仲麻呂(698〜770年)も、李白らと親交があり、詩でも名を成しています。 ちなみに阿倍仲麻呂は、日本が招いた中国の偉いお坊様、鑑真の来日への協力をした後、彼も日本に帰ろうとしますが船が、鑑真は日本に来たものの、仲麻呂の船は難破し、当時唐の領土だったヴェトナムに漂流。仕方なく長安に戻ります。
そして、安史の乱の後、ヴェトナムの節度使(安南節度使)になった後、長安に戻ってそこで病没。可哀想に祖国の土を踏めませんでした。
そして、文学では韓愈・柳宗元らが、六朝時代に流行した美文調の四六駢儷文に対して、漢の時代にスタンダードであった、力強い文章の復興を目指しました。ちなみに、韓愈といえば、「推敲」の故事にでてくる人物で有名ですね。
賈島という人物が、(門を推すべきか、敲くべきか、どちらの表現を使おう?)詩のネタを考えているうちに、韓愈にぶつかります。さあ、大変。韓愈は偉い役人でした。ところが、韓愈は事情を聞いて一言、「それは敲くの方がいい」。詩人同士意気投合したという話です。このことから、じっくり文章を練り直すという意味で、推敲という故事が生まれました。ついでながら、賈島という人物、「度桑乾」という作品を遺し、本業でも歴史に名を残すことができました。
また、儒学では孔穎達が『五經正義』を著し、古典の注釈をする訓詁学が行われますが、その程度で大きく発展はしません。科挙の必須科目に指定され、問題文と解答という形で固定されてしまったからです。当然新しい学説もでませんでした。
一方、仏教は大きく栄えます。孫悟空を連れて天竺へ行ったお坊さんののモデルとして有名な、玄奘は『大唐西域記』を、それから義浄は『南海帰内法伝』を著し、いずれもインドから仏典を持ち帰り、旅行記をのこしています。 なお、前者は陸路で、後者は海路でインドへ行っています。
仏教は多くの宗派が生まれましたが、その中で、禅宗と浄土宗が普及します。
また、この時代に鑑真が日本に行き、仏教界に大きな影響を与えます。
仏教だけではありません、道教も引き続き栄えます。帝室の保護を受けたからです。それから、諸外国との交流からネストリウス派キリスト教である景教(431年、エフェソスの公会議で、キリストを神として十分に祭っていないとして異端とされ、東へと布教してきた)、マニ教、回教(イスラム教)、けん教(ゾロアスター教。在中イラン人が信仰)と、宗教界も国際的です。
また、宮廷や貴族の管理下で染色が発達し、唐三彩などの窯業も盛んになりました。
これらには中央アジアの影響も見られています。
次のページ(第11回 宋の時代)へ
前のページ(第9回 女性皇帝もでた唐の時代)へ