中国史(第13回 宋代の文化)

○モンゴル高原の統一

 さて、現在我々がモンゴル高原と呼んでいる場所。
 平均標高1600メートルのこの場所では、遼が滅んだころより遊牧民族の各部族が抗争を繰り広げていました。そんな中、12世紀の半ば過ぎ。全世界の歴史に影響を与えることになる人物が生まれました。その男の名前はテムジン。後の、チンギス=ハン(1167頃〜1227年)です(ジンギスカンなど、呼び方は色々)。


 テムジンは、遊牧民族の1つであるモンゴル族の一首長、イェスゲイの息子でしたが、9歳の時、イェスゲイは、敵対するタタール族によって、毒殺されます。この地が中国であれば、幼くても息子がその地位を継ぐでしょう。しかし、モンゴルはそうはいきません。なぜならば、モンゴル高原は大変気候の厳しい場所です。我々は、モンゴルと聞くと大草原を思い浮かべがちですが、岩がごろごろとしたところや、砂漠もあります。しかも、夏は案外少なく、一年の大部分は雪で覆われる。そんな地域です。

 で、この地域で生き抜くためには、強大な指導者が必要。9歳の子供ではお話になりません。イェスゲイ死後、その傘下にいた人々は、みな去っていきました。テムジンは、母と弟たちだけで生活することになります。当然、過酷な環境です。

 しかし、テムジンは狩猟採集で自活し、決断力、実行力、統率力、それから冷酷さを身につけます。やがて、成長したテムジンを支援する人々が出てきました。そして、人が集まるようになり、他部族との戦いに勝利して、また人が集まる。そして、モンゴル高原を統一したのでした。

 テムジンは諸部族による有力者の会議、クリルタイにおいて指導者と認められ、ハンという称号が与えられます。ハンとは王というような意味で、モンゴルだけでなく、遊牧民族一般によく見られる称号です。チンギス=ハン(位1206〜27年)の誕生です。チンギスという名前の意味についてはよく解っていません。ちなみにチンギスはこの時40代〜50代。既に決して若くはないんですね。

 さて、チンギス=ハンが各部族を統合すると、それを総称する形でモンゴルと呼ばれるようになります。モンゴル高原とか、モンゴル系の、という言葉はこのとき出来上がったものです。それまでは、モンゴルというのは前述したように一部族の名前。また、ロシアなどではタタール(ダッタン)という言葉でモンゴルを表すこともあります。これは、先ほど登場した、モンゴル族のライバルだったタタール族からきている名前です。

 さて、この時にチンギス=ハンは、モンゴルの各部族を部族単位(戸)で万・千・百・十に編成します(千戸所・百戸所制)。さらに、「ヤサ」とよばれる法律を作ります。これは長くモンゴルで遵守されました。

○モンゴル帝国への道

 そして1209年。いよいよ周辺に向けて侵攻を開始します。まず、西夏(1038〜1227年)に攻撃をかけこれを服従させます(さらに1227年に裏切ったため、滅亡させる)。そして、1218年に引き続き西遼(12世紀〜1218年)を滅ぼします。

 西遼は、前述しましたが遼の王族の一人、耶律大石が建国した国です(グル・ハーンと名乗る)。1241年、イスラム教国家セルジューク朝トルコを破り、当時イスラム教徒に惨敗していたヨーロッパからは、「東方のキリスト教国の王だ!」と絶賛されました。ただし・・・、1211年にナイマン部によって乗っ取られています。

 そしてチンギス=ハン、イスラム教国家であるホラズム王国(1077〜1231年 中央アジアのウイグルやイラン高原・アム川下流を支配 セルジューク朝トルコの奴隷兵=マムルークが建国)へ侵攻。ホラズムは国王ムハンマドがだらしない人物だったこともあり、1231年に滅亡させられました。この時の逸話として、こんな話があります。

 実は、ムハンマドは無能でしたが、その王子ジャラル・ウッディーンは優れた人物だったそうなんですね。
 王子はモンゴル軍と果敢に戦いますがインダス川上流の西北インドで敗北します。この時、王子は馬で、谷を飛び越えて退却します。そして、王子を捕らえるべくモンゴル軍は追おうとしますが、チンギス=ハンはこれを止めました。モンゴルでは強者が尊敬されたのです。

 また、チンギス=ハンは金に対しても攻撃をかけています。この金という国は、モンゴル人たちにとって恨みのある国でした。なぜならば、モンゴル人は金によって奴隷として連れ去られることが多かったからです。この時、チンギス=ハンの幕僚に加わったのが、耶律楚材という人物。

 この人物も遼の王族の一人でしたが、滅亡後の彼の祖先は金に仕えていました。耶律素材は、チンギス=ハンが、東西を統一しようとする夢に惹かれたと同時に、おそらくはモンゴルを中国化しようとしたのでしょう。なぜならば、モンゴルは農耕社会になじんでいません。農民を全部殺して土地を獲得しようだとか、また価値観の違いから中国の文化を理解していませんでした。そのため、耶律素材は純朴な遊牧国家のモンゴルの軌道修正を図り、発展に大きく貢献しました。実は、大したした人物ではなかった、という説もあります。これについては次のページで。

○モンゴルの強さは何だったのか?

 ところで、モンゴルの領土を次々に広げるその軍事力。その強さはどこにあったのでしょうか。まず、先ほどの千戸・百戸制に見られるような、統率に優れた組織です。それから、忘れてはいけないのが馬。モンゴル兵は、一人が5、6頭の馬を引き連れて進軍します。1頭が疲れたら次の馬に乗り換えます。ですから、機動力がすごい。防御側の偵察がモンゴル軍を発見して、都市の防衛を固める前に攻め込んできます。ちなみに、乗り捨てられた馬はどうなるか。馬には、帰巣本能がありますから、きちんと家に戻るのでした。もちろん、いなくなった馬もたくさんいるとは思いますが・・・。

 それから、モンゴルは抵抗する勢力・都市に対しては徹底的に虐殺をします。モンゴルは強くて野蛮だと、周辺に知らしめ、そして戦う前にして降伏してくるような状況を作りました。降伏し、素直に従えばモンゴルは一切危害を加えません。

 こうして、チンギス=ハンは東西にまたがる大帝国を築き、またシルクロードの交易を保証することで、人と物の流れが活発になり、世界をくっつけたのです。チンギス=ハンは1227年、命令に従わなかった西夏を攻略中に死亡しました。後を継いだのはオゴタイ=ハン

 そして、チンギス=ハンの墓はモンゴル高原のヘルレン川流域に作られました。
 しかし、盗掘を恐れ、記念碑を作らず、場所を特定できないようにしたため、現在も発見されていません。たまに、テレビで「チンギス=ハンの墓発見?」なんて番組が登場しますが、もしも墓が発見されたのなら全世界で一斉に報道されますよ。それほど見つけにくいものです。何の手がかりもないのですから・・・。

 ・・・ところが、であります。いやあ、こういう事もあるんですねえ。
 2004年10月4日、チンギス=ハンの霊をまつる霊廟(れいびょう)をモンゴル西部で発見したと、国学院大、新潟大とモンゴル科学アカデミー考古学研究所の合同調査団(団長、加藤晋平・元国学院大教授)が発表したそうです。もちろん、霊廟=墓ではないんですけど、墓と霊廟の位置関係を示す史料なら残されているとか。

 それは、「元史」という歴史書に「この霊廟から君主の墓までの距離は5里(3キロ弱)の外」とあること。

 その霊廟の場所は、モンゴルの首都ウランバートルから東約250キロのヘルレン川沿いの草原地帯にあるアウラガ遺跡。規模は、東西約1200m、南北約500mという、当時のモンゴルとしては超巨大な遺跡で、チンギス=ハンの最大根拠地の「大オルド」と言われているそうです。既に、01年から昨年までの調査でチンギス=ハンと、オゴタイ=ハンの宮殿が発掘されていたんですって。つまり、この周辺を探索すれば、墓が発見される可能性が高いとか。

 もっとも、墓の発掘自体はモンゴルの人達が「英雄の墓を暴くのには反対」という感情があるそうで、やらないそうです。

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