第21回 女真族の後金・清と李自成の乱

○今回の年表

1583年 ヌルハチ決起。女真族統一へ乗り出す。
1589年 (フランス) アンリ4世即位、ブルボン朝開始。
1592〜93年 豊臣秀吉の朝鮮侵略。 97〜98年にかけて第2回目も。
1593年 ヌルハチ、女真族を統一。
1603年 徳川家康、江戸幕府を開く。15年には豊臣秀頼を滅ぼし、徳川家の天下に。
1616年 ヌルハチ、後金を建国。
1624年 オランダ、台湾を占領。
1628年 イングランド議会がチャールズ1世に権利請願を行う。
1636年 ホンタイジ、国号を「清」と改める。また、朝鮮に侵攻し、これを服属させる。
1643年 清で順治帝が即位。
1644年 李自成が北京を包囲し、これを占領。明が滅亡する。
1644年 清が北京に侵攻し占領。清の中国支配が開始。

○ヌルハチ、立つ!


 12世紀に金を建国した女真族は、金が滅亡した後、一部が元に仕えた他は、再び故郷である中国東北部に戻ります。自らをマンジュ、すなわち俗に言う満州とよび明の時代になると、明の間接支配を受けながら、建州女真、海西女真、野人女真など各部族に別れ、それぞれが争いながら生活していました。

 ところが、これを統一する者が表れます。その人物の名は、アイシンギョロ(愛新覚羅)・ヌルハチ1559〜1626年)。建州女真の首長の出身です。彼は、1583年に、祖父と父が明軍に殺されたのをきっかけに、「明に対抗できる強い女真族を」というわけで、まず建州女真内を引き締め、自分の元に統一し、次いで各女真部族と戦い、これを支配下に置きます。そして軍事上の組織で、さらに行政・社会組織にもなる「八旗」に女真族を編成します。


 八旗とは、黄、白、紅、藍の4種、及びそれに縁取りのある、なしで、八種の軍団の旗印に分けられた組織です(左写真参照/瀋陽の東陵にて)。この軍団に属する人は旗人とよばれ、生活保障のために旗地という田地をあたえられた、特権階級のような存在となりました。各旗の構成は、300人の壮丁(成人男性)を1ニル(矢という意味)とした上で、5ニルで1ジャラン(=隊)、5ジャランで1グサ(=旗)とします。合計すると、1旗には7500人の旗人が所属した ことになりますね。

 ちなみに、このシステムは女真(満州)族が漢民族と同化するに従い、気風を失ったため、19世紀には近代軍隊に取って代わられ、廃止されています。が、この頃は非常に画期的な軍団でした。また、「満州文字」というオリジナル文字を作らせています。以前は金が作らせた女真文字というのがあったのですが、ごくごく一部の人にしか使えない文字でした。

 そして、最初の頃は明に従順で(そう見せながら少しずつ勢力を拡大し)、明側も事を荒立てずにおこうという方針でしたが、1608年以降、明は女真族に対して強い態度で臨むことにしたため、ここにヌルハチは、ハン(皇帝)の座に就き、「」を建国することにします。12世紀の金と区別するために、これを歴史家は「後金」として区別します。

 この動きを明が黙ってみているわけはありません。1619年、日本で言えば徳川家康が死んで3年後になりますが、明は10万の軍勢を後金にぶつけました。しかし、後金はこれを、今の日本総領事館がある瀋陽近くのサルフ(サルホ)で撃破(サルフの戦い)します。

○内部が腐ってれば、どうしようもない

 明も人材がいないわけではありません。この敗戦のあと、現地の司令官になった熊廷弼(ゆうていひつ)は、先の戦いの敗戦の責任者達を死罪にした上で、「まだ敗戦の傷が癒えていない」として防御策に。これは成功し、後金軍はこれを1年も突破することが出来ませんでした。

 ところが、明の内部が腐っていて、宦官が「熊廷弼は戦っていない」と弾劾を始めました。宦官は、何かを言って皇帝に取り入り、ポイントを稼ぐのが好きなんです。静かにしているのでは、皇帝に覚えてもらえず出世できないのですから、しかし、これは困った問題です。

 実は、こういう事も起こるだろうと考えた熊廷弼は、あらかじめ任地に向かう際、万歴帝に対し「小言に惑わされず、長い目で見て頂きたい」とクギを刺しておいたのです。しかし、短い間に皇帝は泰昌帝天啓帝へと代わってしまい、そんな約束もどこへやら。嫌気がさした熊廷弼は辞任しました。

 代わって、袁応泰が後任として赴任。しかし、清軍にボコボコにされ、1621年には、瀋陽と遼陽も陥落させられ自殺。ヌルハチは、遼陽を都としました。


 流石に驚いた明の政府は、かつて熊廷弼の弾劾をした宦官達を左遷。再び熊艇弼が登場しますが、慎重型の彼は、大言壮語を吐き、格好良いこと好きな相棒・王化貞と対立し、上手く行かずに清軍に敗北(こんな人物を相棒として派遣する明はどうかしています)。しかも、「熊艇弼」のみ、死罪になりました。この相棒は、どうやら悪名高い宦官・魏忠賢とつながっていたようです。なお、ヌルハチはこの後、1625年に、瀋陽を都とします(のちに盛京と改称/写真は瀋陽に造られた故宮)。

 では、これで後金軍に向かうところ敵なしかと思いきや、明の将軍・袁崇煥が築城し、彼が守る寧遼城が陥落できない。こんな城、すぐに陥落させてやるわ、とヌルハチは攻め込んだのですが、なんと寧遼城にはポルトガル製の強力な大砲が並んでいました。密集して一点突破攻撃を仕掛けていた後金の軍勢は、見事に大砲の餌食になり、ヌルハチ自身も大砲で負傷し、退却。この時の傷が元で死去しました(公式には病死となっています)。


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