第26回 アヘン戦争前夜

○明&清王朝は他国をどう見ていたか


 さてさて、そんなわけで簡潔に記せば
 「しかし乾隆帝の死後、清の国力は大きく落ち、アヘン戦争・アロー戦争でイギリスに負け、清は諸外国の植民地のようになっていった」となるわけですが、その前提となるお話はしておかないといけないと思います。つまらないなあと感じる人もいるかもしれないけど、頑張って付き合ってくださいね。

 さて、乾隆帝がまだ皇帝であった頃。
 当時のイギリスは、産業革命によって・・・と言っても、何か劇的な変化と言うよりも、それは蒸気機関による機械化の進展によって次第に(ただし急速に)様々な商品の生産性が向上していました。一方、この頃にイギリスでは「喫茶」、つまりお茶を飲む風習が広がり、当時、そのお茶の唯一の産地である清から輸入をしていました。

 ところが、イギリスが清に輸出するものがありません。すなわち、イギリスの特産品である毛織物は「野蛮人の着るもの」として清では不人気で、じゃあ陶磁器は・・・となると、こちらは清が特産地ですから、輸入する必要はありません。当然、イギリスにとって大きな貿易赤字。銀貨で代金は支払っていましたが、流出する一方です。

 そこで、のちにアヘンを輸出するようになり問題となるのですが、それは後の話。
 なお、イギリスの通貨がどのように清の中で通用したのか疑問の方もいると思いますが、清では国内における大抵の取引は銅銭で行い、大きな取引の場合、銀の純度と重さを量って通貨として使っていました。だから、どんな形でも良かったんですね。ちなみに清が独自に銀貨を鋳造し始めたのはアヘン戦争以後です。

 それから、当然犯罪などにイギリス人が巻き込まれた場合の措置なども政府間協定で結んでおかねばならないのですが、政府間協定などと言う概念は清にはなく、問題となっていました。また、これもイギリス側としては面倒だったので撤廃したがっていたのですが貿易をする時、中国南部、広東省の広州でしか貿易を認められず、しかも外には出られず、さらに公行(コンホン)とよばれる民間の貿易を独占的貿易特許団体としか貿易が認められなかったのです。

 さて、ここは是非、清の政府と交渉したいとイギリスは考え使者を送るのですが、窓口がないのです。それは、日本とオランダの関係にも似ていまして(むしろ状況は悪いぐらい?)、唯一の貿易の窓口である広州において、特別に貿易を許す、ただし、商館(夷館)の外には出るな、と言う感じだったのですね。

 そこで、乾隆帝が80歳になったというので、イギリス国王ジョージ3世は、お祝いの名目で使者を出しました。清の政府も、これなら了解。ただし所詮名目ですから、実際に使者が清に到着したのは、乾隆帝が83歳の時。そして、派遣団の団長がジョン・マカートニーという人物でした。で、何とか北京まで行けたのですがここで問題が発生。

 清の政府は、このイギリスの使者が朝貢、すなわち従属国が清の君主の徳を慕ってやってきていると考えていたので、三跪九叩頭の礼(さんき きゅうこうとう)を要求。3回跪いて、9回頭を床につける、という礼です。ところがマカートニーもマカートニーで、「イギリスでは違う、膝を屈して手に接吻するのが挨拶の儀礼だ!」として対立。結局、妥協案として階段を上って跪いてイギリス国王の親書を乾隆帝に手渡しました。

 そして、マカートニーは本題に入ります。
 もっと自由に貿易させろ、北京に商館と駐在員をおかせろ、キリスト教を布教させろ、以下云々・・・。しかし、乾隆帝からは「何を言っているんだこいつは。中華の文化を理解できない野蛮人め」として哀れみをかけられるだけで、何一つ成果もなく、マカートニーは北京を去ることになりました。お互いに自分の常識に囚われすぎで、外交がヘタですね。

 でも、伝統的な中華思想である「徳のある中華の皇帝が世界の全ての国に恩を与え、教育する」という状況下では、とてもとても交渉の余地はなかったのかもしれません。だいたい、「天朝(=清王朝)は物産が豊富で、貿易なんてする必要がない」とまでジョージ3世に勅諭を送っているぐらいです。

 これまでの中国の歴代王朝は、こんな感じで朝鮮、ヴェトナム、ビルマ、琉球、中央アジアなどと中国王朝が上位に立ち、周辺国を服属させる関係を結ぶ一方で、ただし内政の干渉は基本的にしないという関係を結んでいました。こう言っては中国には失礼ですが、原則として「貴方が大将!」と中国の王朝をおだててやれば、その見返りとして服属国は意外と下賜を沢山もらったり、貿易その他で恩恵を得られたのです。

 しかし、誇り高い大英帝国のイギリスはそうはいきません。
 この後、ネーピアという人物を派遣しますがこれも失敗すると、
 「誰が貴様の言うことを聞くものか、おのれ、見ていろよ・・・」と、次の作戦に打って出ることになります。

○清が衰退するのは何故?

 さて、乾隆帝が退位する前後から清の治安が大きく乱れます。
 たとえば、前回でも出ましたが、乾隆帝退位から2年後に白蓮(びゃくれん)教徒による大反乱が起こります。中国の歴史を見ると、世の中が不安になると宗教指導者に率いられた反乱が多く、そしてそのまま王朝が崩壊することが多いですね(宗教政権は出来ないのですけど)。しかし、この反乱は少し例外で、これと言った一元的な指揮系統が無く、同じ時期ながら散発的に反乱が怠ったため、10年続いたものの、各個撃破されてしまいました。

 しかし、それではどうして世の中の政情が不安になったのか。
 それは、人口の急激な増加にあります。何とこの時期、一気に2億から4億人にまで増えてしまったんですね。少しずつ人口が増えるのであれば、それに見合った経済システムが出来るのですが、突然増えてしまうと失業者もあふれかえりますし、農地だって直ぐには2倍になりません。そうすると、どうするか。窃盗、強盗、誘拐、殺人と、様々な非合法的な手段を使ってお金を手に入れようとします。

 当然、今度は人々は自分の身を守らないといけません。
 グループを作って自衛します。その中で、もっとも人を集めやすいのが宗教なのです。しかし、清の政府では言論弾圧はもちろん、いつ何時、大規模なグループが政府を脅かすかが不安であり、結社を禁止していました。もちろん、弾圧にかかります。そのために、先ほどのような宗教反乱が起こったのです。

 そして、宗教だけではありません。
 仕事を同じくする人達も、グループを結成します。特に、海上輸送を担当する水夫の人々がグループを結成しました。1つには、陸路が危険なので、海上輸送が盛んだったこと、しかし海上も危険になってきたので、商売人達が手を組む必要があったのです。また、政府の専売品である塩を私的に輸送して利益も得ていました。ところが、政府に密告されたら処刑です。そこで、みんなでグループを作り、相互監視しながら裏切り者がでないようにしたのです。次第に、アヘンの輸送など非合法にも磨きがかかってくるのですが・・・。

 しかし、グループを結成していることはやはりばれる。
 そこで彼らは、表向きのグループ名をこう考えました。
 「安清幇(アンチンパン)」です。*幇の「封」の部分は「邦」の場合も。
 幇とはグループという意味で、清を安定させるグループ、ということですね。こうして、「政府大好きだから、お目こぼしを」と主張したのです。しかし、政府好きだろうが関係はなく、弾圧されることもしばしば。そのせいか、そのうちにグループ名は「青幇(チンパン)」と変えるようになりました。

 で、色々とまあ裏社会のネットワークを形成していくことになります。要は、マフィアです。


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