第28回 今回はキリスト教?太平天国の乱

○独自に編み出したキリスト教!?

 さて、南京条約が結ばれてから9年後。
 すなわち1851年、広西省の金田村という場所で洪秀全という人物を中心とした拝上帝会という宗教による反乱が起こりました。またまた宗教による反乱です。ところが今回の反乱がいつもと違うのは、キリスト教によるものと言うこと。一体、こりゃなんぞや?

 まずは、洪秀全という人物を紹介する必要がありますね。
 この人物は、元々は官僚になるべく科挙の地方試験である郷試を受けていたのですが、3度も落ちてしまった! そのショックで寝込んでいたある日、まあ要は、さる老人からの世の中をただすようにと、お告げがあった。一体これは何だろうと・・・む、どこかで・・・、と家の中を探すと、そこに出てきたのが2度目の試験の時に広州でイギリス人宣教師にもらった「勧世良書」という冊子。

 そうか、この老人はエホバの神とキリスト様だったんだ!と確信。
 さらに4度目の試験にも落ちたので、その試験内容である孔子や孟子の教えを捨て(そりゃあ、嫌になりますわね)、完全にキリスト教にのめり込んでいきました。そして友人の王綸子(おうりんし)、馮雲山(ひょううんざん)を巻き込み、「勧世良書」を研究していきます。ところがこの「勧世良書」、キリストの教えを中国語訳してあったものですが、あまりキリスト教を理解していない中国人が約したものだったため、因果応報など仏教の思想がかなり混じっていまして、これに洪秀全達のオリジナル解釈が加わり、ちょっと本場のキリスト教とは変わったものになっていきます。

 そして、1843年。すなわちアヘン戦争の翌年。
 洪秀全達は、拝上帝会を結成。エホバを上帝とし、自分はエホバの子でイエスの弟とします。

○内情はドロドロ

 ところが、このグループは既に大きな問題を抱えることになります。ある時、馮雲山は官憲に捕まったのですが、友を捨ててはおけないと洪秀全は馮雲山を助けに、彼が拘束されている広州にまで行きました。

 ところが、すでに馮雲山は解放されていたため、二人は入れ違いになってしまいました。
 そこで馮雲山はまた、洪秀全を迎えに広州にまでに戻るという、如何に二人の友情が厚いかという感動のお話なのですが、この間、教団のトップが不在ということになります。そこに、楊秀清という人物が登場し、「私にはエホバが乗り移って、エホバの意思を伝えるんだ」という状況を造り上げます(これを、天父下凡といいます)。もちろん、エホバの言葉には誰も逆らえません。そう、洪秀全よりも立場が当然上です。

 洪秀全は、この時父親が亡くなったこともあり、さらに帰還が遅れました。なんと1年半です。さらに馮雲山も洪秀全に会うと同行していたため、帰還してみると、エホバが乗り移る楊秀清が事実上の教団のトップであるという事態が起こっていたのです。さらに、蕭朝貴(しょうちょうき)が、キリストの言葉を伝えるという体制まで出来ていました(天兄下凡)。あららら・・・。

 そこで二人を粛清しないのが、ある意味で洪秀全の甘いところですが、彼はそれよりもキリストの教えを作る国家樹立の方に情熱を傾け、飢饉によって人々の不満が高まっていたのに乗じて(最初は迷いましたが)反乱を起こすのです。

 洪秀全達は、「滅満興漢」というスローガンを掲げ、満州族の風習である弁髪の強制を許否(そのため、清から長髪族と呼ばれ、さらに後の清王朝打倒に影響を与える)。また、男女平等と纏足の廃止、土地均等配分(天朝田畝制 てんちょうでんぽせい)、租税軽減などを掲げました。(*纏足=てんそく 当時、女性は動けない方が可愛らしいと言うことで人為的に足の成長を阻害させていた)

○太平天国


 この動きに対し、清は左遷していた林則徐を呼び戻し、再び欽差大臣に任命します。討伐してこい、ということですね。しかし、彼は病床にあり、病をおして出仕しようとしたところ広東で病没してしまいました。その次に、李星元という人物が後任になりますが、こちらは高齢で、やはり病没(なお、元の時にはさんずいが付く)。先行き不安です。

 一方、洪秀全軍は発祥の地である金田村から近い永安を陥落させ、1851年、太平天国の成立を宣言。ここで官職を整え、洪秀全は天王と名乗り
 東王 楊秀清
 西王 蕭朝貴
 南王 馮雲山
 北王 韋昌輝
 翼王 石達開
 という、5人組の体制を作りました。
 
 そして、ようやく本腰になった清軍に永安を包囲されるも、これを突破! 各地で清軍を撃破し、途中、南王の馮雲山、西王の蕭朝貴が戦死するものの、南京を陥落させ、ここを天京しました。

 ところが洪秀全は、実権を楊秀清が握っていたのに嫌気が差しました、と言うか何も出来ない。楊秀清はなんと「天父下凡」を使い、洪秀全に命令する始末です。そして竹馬の友の馮雲山も既にこの世にいません。また、洪秀全の妹婿になっていた蕭朝貴も戦死し、頼るべき人物がいなくなっていました。

 孤立した洪秀全は宮殿に閉じこもり、思索の日々を送ります。しかし「天父下凡」はエスカレートし、とうとう我慢できなくなりました。どこまで洪秀全の命令があったかは不明ですが、北王の韋昌輝が、楊秀清を急襲し、殺害しました(もちろん、あの揚秀清を殺すと言うことなので、天王である洪秀全はあずかり知らぬ事、とされる)。

 ところが韋昌輝も自分の権力を固めるべく、あれこれと謀略を巡らします。つまり、自分の派閥に属さない者を粛清するんですね。先ほどの5人を見ると、彼以外に残っているのは石達開。当然、邪魔です。この時南京に石達開はいなかったのですが、彼の妻と子供は殺されてしまいました。

 この時、石達開は25歳。若さもあって、相当憤慨したはずです。当然、韋昌輝に戦いを挑みます。
 これに対し、韋昌輝は狂ったのか、なんと洪秀全に攻撃をかけます。しかし、いくら何でもそれはやり過ぎで、韋昌輝の兵士達もやる気もあった者ではなく、さらに韋昌輝に粛清された人の残党が韋昌輝に襲いかかり、これを捕らえ八つ裂きにされて処刑されました。

 そんなこんなで、次は石達開が実権を握ります。
 この石達開は学識もあり、若くて立派な人物でした。そのため人々の人気も上々。やっと正常になると思ったんですね。ところが、人気がありすぎるのも問題。洪秀全は完全に疑心暗鬼状態に陥っており、しかし肉親だけは信用できると考えて無能な自分の兄2人を高位に付け、石達開に対抗。嫌気がさした石達開は、20万の軍勢を率いて太平天国を去りました。

 そんなこんなで、内紛を起こした太平天国は弱体化。
 さらに、最初はキリスト教国であるとして太平天国に好意的だったイギリスやフランスも、太平天国がアヘン貿易を認めない方針であることと、清に恩を売って貿易を有利にしようと考え、太平天国討伐に協力(というか、フランスの場合はカトリック教国であったこともあり、太平天国のキリスト教と仲が悪かった)。

 有名なのは、イギリスのウォード(戦死)、その後任のゴードン率いる軍勢ですね。清の政府は外人部隊に「常勝軍」と名付け、大いに活用します。そして最終的に、清の将軍、曾国藩が率いる軍勢「湘軍」に天京は包囲され、陥落の一ヶ月前、洪秀全は服毒自殺をして果てました。ちなみに面白いことに、”曾国藩が率いる”と書きましたが、彼が第一線に立つと負けるというジンクスがあったそうで、弟の曾国茎が前線に立っています。

 こうして太平天国は滅び、残党も次々と討伐。
 しかし、清はこの反乱で大打撃を受け、さらに正規軍が使い物にならない事を露骨に証明。
 そのため、政府は私的に軍隊を造って訓練しろ、と曾国藩などに命令し「湘軍」や、李鴻章という人物の「淮軍」などが結成されたのですが、これは、軍閥の先駆けとなっていきます。

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