江戸幕府を改革せんとした人々3.徳川吉宗
とりあえず、改革に成功したと言われているのがこの人物である。「享保の改革」といわれる彼の政策により、幕府は何とか息を継ぐことができた。そのため、幕府中興の祖と呼ばれる。吉宗は、御三家の一つである紀伊徳川家2代藩主徳川光貞の3男として生まれた。常識で考えればこのまま歴史に埋もれる人物になるはずだったが、兄たちが次々死去。見事に紀伊徳川家の地位を獲得した。
なんと幸運、と言いたいところだが、当時の紀伊藩は吉宗の兄2人光貞との葬式の費用、初代藩主頼宣が幕府から借りた10万両の返済問題、紀州南岸をおそった地震と津波の被害と悪いことは続けて起こるもので、諸々の出費で財政赤字に苦しんでいた。吉宗はこれを改善しなければいけなかった。こうして彼は、11年間の藩主時代、藩政の立て直しにあたった。とくに井沢為永などの登用で治水・勧農事業を中心とする農政の改革に着手。また緊縮財政をかかげて経費節減や、自分を含め質素倹約を徹底させ、さらに家臣の給料の一部をカットし(これを差上金という。家臣が藩に給料を差し出すという形式のため)、また小役人など80人を解雇。藩主就任5年目にして財政を黒字にし、金蔵・米倉を建て増しするほどになった。また。有名な目安箱の先駆けとなる訴訟箱を和歌山城の門外にもうけ、庶民から意見ももとめた(異説あり)。う〜む、まさにカルロス・ゴーン?
さてさて1716年。吉宗は8代将軍に就任する。それは、有力な対抗馬がいなかったから(尾張家の当主が死去していた)と大奥や老中の支持を得たからである。彼は早速側用人を廃止。これで老中達とのコミュニケーションをとりやすくするとともに、彼らの機嫌をとった。一方で彼の腹心である加納久通・有馬氏倫(うじのり)らを、新設した側御用取次役(実質的に側用人)に任命し身辺を紀州家出身者で固めた。
また、土屋政直・井上正岑(まさみね)といった老中達は「今の幕府の財政状況は?」などの吉宗の問いに即答できず、凡庸であることを見事に露呈。大いに彼らは恥じたらしいが、将軍擁立の功で解任されることはなかった。つまり、名誉を守ったまま、口を黙らせたわけだ。これで抵抗勢力は押さえる。
さらに、大岡忠相(越前)の登用など、家柄・若手に関係なく人材を登用。さらにそれをいっそう押し進めるべく「足高の制」を定めた。これは、役職が高くなるに連れて出費がかさむ中、身分や家禄の低いものでも高い役職に就けるように、在職中はその必要経費を払ってあげましょうというものである(注:役職が高いと給料が高くなるなんて決まりはないのよ。給料が低いまま平社員が部長になったら大変。人付き合いなどの出費に苦しむでしょう)。