江戸幕府を改革せんとした人々:田沼意次
賄賂政治をしたとして非常に悪名高い田沼意次。もっとも、それは戦前の考え方で、戦後は次第に幕府では珍しい経済通の人物として評価が高まっています。それでも、賄賂政治のイメージはなかなかとれないんですがね・・・・。ただこれは、彼を仇敵として憎んだ松平定信一派の流したデマのようです。
正確に言うと、当時の幕府では賄賂を取ることはむしろ当たり前のことでした。何故かというと、賄賂を取ればそれだけ、賄賂を送ってくる諸大名の勢力をそぐことが出来るからです。田沼意次がどれほど賄賂を取ったか、もしくは賄賂を取らなかったかは解りませんが、しかしながら今言われているように彼だけが特別に悪いことをやったわけではないようです。
それを表すエピソードとして、田沼意次が側用人だった頃、仙台藩の伊達重村が、「島津家よりも官位が下というのは許せない。何とか同格になるよう便宜を図ってくれ」と、賄賂を使って要請してきます。この時、老中の松平武元はしっかり受け取っていますが、田沼意次は門前払いしております。
1.田沼意次の出世街道
まずは、田沼意次がその権力をつかむまでを見ていくとしましょう。田沼意次の父、意行(もとゆき)は紀州藩の出身で、徳川吉宗が8代将軍に就任するときに江戸幕府に転勤しました。600石の旗本です。そして、田沼意次は15歳で、吉宗の長男、後に9代将軍となる徳川家重の小姓になります。
家重が9代将軍となると、意次は御小姓組番頭となり、禄高も2000石へ。1751年にはさらに御側役、その4年後には5000石へ加増。この時32歳。1760年に家重が亡くなりますが、彼は跡継ぎの家治に「意次の能力は高いから是非使いなさい」と遺言。
しかも、家治は凡庸ではありませんでしたが、政治にはあまり興味がない。そんなわけで、次の将軍になっても意次は重用され、老中の松平武元とコンビを組んで政治を行います。そして1767年には側用人に登用され(家重の時に側用人は復活)、2万石に。2年後にはなんと老中格になり、2万5000石へ。その後老中にもなり、最終的には遠江相良5万7000石へ出世します。柳沢吉保ですら老中そのものにはなれませんでしたから、いかに家治が意次を信頼したかが解ります。
余談ですが、ほとんど馬鹿の代名詞とされる家重。
言語不明瞭で、全てを投げ出し、唯一彼の言葉を理解できたという側用人の大岡忠光(大岡越前の遠戚)に任せっきりとして評判がえらく悪いですが、前述のように田沼意次の才能を見抜いたり、また彼の重用した大岡忠光は、彼のために復活された側用人という立場を悪用せず、あくまで分をわきまえた行動をとっていることから、人材を見る目は多少あり、世間一般に言われているほど馬鹿ではない気がします。
2.妬みと恨み・・・ほとんどサスペンスドラマ並み!
当然、元々は紀州藩の下っ端の家柄である軽輩の田沼意次が、出世していくのを苦々しく思う人たちが出てきます。そこで意次は、譜代大名や大奥(将軍の奥方などのが女性がいる場所)にご機嫌をとったり、姻戚関係を結んだりと、結びつきを強化していきます。その中で田沼意次と特に懇意になったのが徳川治斉(はるさだ)。吉宗が、将軍に後継者がいないときには跡継ぎを出すことにした御三卿の1つ・一橋家の当主です。彼は、将軍家治の体質から考えると跡継ぎは出来まいと考え、そうすると自分の所から将軍を出したいと思います。しかし、そこでライバルとなるのが、やはり御三卿の1つ・田安家。
ここ当主の治察(はるあき)は虚弱体質でどうせもう先は長くないし、子供もいない。それはいいが、弟の賢丸(まさまる)というのが残っていて、これがライバルになりそう。そこで治斉は、将軍に圧力をかけて、無理矢理、賢丸を奥州白河藩(福島県)の、松平定邦の養子に飛ばしてしまいます。これに、田沼意次が協力したらしい。
この賢丸こそ、後の老中・松平定信。果たして、家治には後継者が出来ず、治察も子がないまま病没。10代将軍の座は治斉の子、家斉が射止め、さらに後継者のいない田安家は家斉の弟が跡を継ぐと、踏んだり蹴ったりです。当然、松平定信は徳川治斉を恨む・・・・と思いきや、猛烈に田沼意次を恨みます。熱烈に田沼意次の悪口を言いまくり、賄賂老中だとねつ造して人々に言いふらし・・・。
お怒りはごもっともですが、あなた、恨む相手を間違えていますよ(笑)。
さらに、家治が危篤に陥ると、徳川治斉は田沼意次を裏切り、松平定信に接近。定信は、彼を自派に入れるという始末。
まあ、そんなわけで・・・、家治が死ぬと、田沼意次は一気に権力の座から引きずりおろされ、家督も孫の意明に譲らされ、城は徹底的に壊され、奥州下村1万石へと左遷されます。
それに先立ち、田沼意次は息子の意知(おきとも)を、城内で暗殺されるという悲劇で失っています。下手人は佐野正言(まさこと)。個人的な恨みで殺されたと言われていますが、これも怪しい。定信が裏で手を引いている可能性はあります。当時のオランダ商館長は、幕府の高官が関わっていたと書き残しています。
と、申しますか・・・。
そもそも、定信の父・宗武は、家重と将軍位を巡って争って負けているわけです。当然、定信とすれば面白くない。自分の父は英明の誉れ高く、かたや家重は言語不明瞭で意味がわからない。何であんなやつが将軍位を。そして、当然、家治もむかつく、と。そんな全ての鬱憤を、下っ端である田沼意次にぶつけたんではないかと思います。
ちなみに、家治は重病に陥ったときに、田沼意次が推薦した医者の薬を飲んで危篤に陥りました。このため、定信は意次が家治を暗殺したんだと言い回ります。ですが、ちょっと考えれば解ることですが、意次は家治が生きていないと権力の座から落とされてしまう。むしろ、家治が生きていたら困るのは誰か。・・・はい。
う〜ん、真相は闇の中ですが、権力闘争は恐ろしいですね。では、次のページで政策を見ていきましょう。