○アテネの政治とソロンの改革
パルテノン神殿
アテネにおいて、当時は法律=貴族の人々による慣習が全てであり、それは文章で示されたものではありませんでした。そのため前620年頃、当時の筆頭(アルコン、首相のようなもの)であったドラコンという人物が、慣習法を成文化することにしました。残念ながら彼による法律はほとんど残ってなく、その後の哲学者アリストテレス(前384〜前322年)は著書の中で、「刑罰が厳しいこと以外記憶するほどのものは無い」と、バッサリと切り捨てているのが解る程度です。
次に前594年、平民と貴族が対立する中、ソロン(前640頃〜前560年頃)は「財産によって政治に参加できる範囲を決めよう」と提案・調停しました。具体的には、人々を財産により最高級(仮 実際の名称は不明)・騎士級・農民級・労働者級と4つにわけ、最初の2つがアルコンを選べる身分、農民級が歩兵の主力、労働者級が軽装兵、兵船のこぎ手と役割分担させました。
また、ソロンは借金で奴隷になった人々に対し、負債を帳消しにし、自由民に戻させました。これを「重荷おろし」といいます。しかし、どこかの首相に似ていますが、ソロンの改革は徹底したものではありませんでした。そのため、貴族などの抵抗勢力からも、また貧者からも見放され、ソロンは祖国から出ていきました。その後、彼は小アジアのリディア王国などに行ったようです。
ちなみにソロンは詩人でもありました。詩の中で彼はこう語っています。
「常に多くを学びつつ、私は年老いてゆくのだ」
「莫大な財宝を持って、冥界に行くことなどできない」
「罪は、たとえ自分が罰を受けるのを逃れたとしても、子や孫がつけを払うことになる」
そして、後の時代を予言してこう述べています。
「偉大な人物によりポリスは滅びる。民衆は知らない間に、1人の支配による奴隷状態に陥るだろう。今こそよく考えなくてはいけない。」
そして予言は当たりました。
○アテネの政治と僣主
ソロンの後、主に平民の支持を受けることでポリスの実権を握る人々が現れます。それが、僣主(せんしゅ)とよばれる人々です。僣主は、ほとんどは交易などで富裕になった者や、貴族同士の争いに勝った人が大半で、平民を味方にして他の貴族を倒し、独裁政治を行います。独裁政治といっても僣主によって様々で、暴君もいれば、人気取りのために土木公共事業や、農民、文化の保護政策に力を入れた人物もいます(アテネのペイシストラトス(?〜前528年)が後者の例)。とはいえ、基本的には僣主は危険でした。そのため前508年、アテネのクレイステネスは陶片追放(オストラシズム)の制を定めます。これは市民に、僣主に成りそうな人の名前を、陶器の破片に書いて投票してもらい、投票総数が6000票以上あった場合、最高得票者は10年間追放されるというものでした。
また彼は、市民を地理的区分で10部族にわけます(それまでは血縁で区分されていた)。この10部族から50人ずつ「くじ」で議員を選んでもらい、総計500人による議会(五百人評議会)を作ります。この評議会では、民会という人々の集会での審議事項を先に議論し、会がスムーズに進むよう準備する役割を負います。これにより民会の役割が増大し、それを中心とする民主政の成立に大きく貢献しました。これら、アテネの政治システムについては次回に図で見ます。
ちなみに彼の母方の祖父は僣主。しかし、クレイステネス自身は前述のペイしストラトスによって、アテネから追放されていました。おそらく政争に負けたのでしょう。ですが、前510年頃、デルフォイの神託という、ギリシャ世界でもっとも重要視された巫女の神託によりアテネに帰還することになったのでした。
え?デルフォイの神託って何?
これはアポロン神殿で行われた神託でして、何で重要視されたかを解説しますと・・・。
1つには当然宗教的な意味があります。しかし、もう一つは神託の正確性でした。というのも、ここには様々な国・地域の人々が神託を聴きにやってきます。そのため、情報交換がよく行われ、デルフォイの巫女はグローバルな情報まで一手に握っていたのです。ですから、彼女の言うことなら間違いない、と、こういう理由で重要視&信頼されたのでした。
それはさておきクレイステネスは、このように民主政治の基礎を作ることになりました。ただし、あくまでもそれは成人男性のものでしたし、さらに奴隷制を基礎としたものでした。そのため手放しで賞賛するわけにはいきません。彼らは、奴隷に働かせて自由に暮らしていたのです。
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