第5回 スパルタとペロポネソス戦争
○スパルタ教育発祥の地
スパルタ遺跡
さて、これまで主にアテネを中心としてみてきましたが、もう一つ、まるで違う政体を持つポリスがスパルタ。民族もアテネがイオニア人なのに対し、スパルタはドーリア人。ポリスの形成も、アテネは貴族が平民を率いて作ったのに対し、スパルタは先住民を征服して誕生。
政治はアテネは古くから民主政ですが、スパルタはずっと王政(2つの王家と長老達による民主政)、経済はアテネが貿易の商業主義なのに、スパルタは農業主義。
おやまあ、徹底して違いますね。
そもそも人口、そしてその構成も全然違います。
例えば前431年のアテネでは、両親共にアテネ市民の成年男子が3万5000人、そして奴隷が10万人。
一方のスパルタはほぼ同じ時期に1500〜2000人しか完全市民(たぶん成人成年男子の数字)がいない。あとは、2万人の半自由民(ペリオイコイ 参政権無く兵役の義務を負う)、そして奴隷(ヘロット)が5万人という状況。
そして、このヘロット達は完全市民のスパルタ人に対しよく反乱を起こします。それを鎮圧するためには、2000人のスパルタ人が強くなくてはならない。そこでスパルタ教育が発祥するのです。もちろん、スパルタ教育という単語は後世のもの。では、見てみましょう。
まず、0歳。生まれると早速、部族長の選別で体が弱いと判断されると捨てられます。
7歳になると、家族から離され、他の子供達と共同生活。読み書きなどの教育、戦士としての基礎訓練が行われます。ちなみに、家族と完全に隔離というわけではありません。また、裸での生活が習慣づけられます。
12歳でいよいよ本格的訓練。戦士として徹底的に鍛えられます。サバイバル訓練も行われ、奴隷の家から食料を盗んで食いつなぐ訓練もあります。この時、奴隷は殺しても構いません。
18歳になると成人とみなされますが、引き続き軍事訓練。
20歳でいよいよ軍隊入り。結婚はまだ駄目。30歳になると、ようやく解放され、家庭を持つことができるようになります。また、民会にもようやく出席可能に。ただし、必ず食事は共同食事と言って、15人以上男同士で集まって飯をとならければなりません。また、いつでも軍役に奉仕できるように常に臨戦態勢。
そして60歳になると、長老会のメンバーになるための被選挙権がもらえます。ああ、なんと厳しい生涯。
また、女性の場合は丈夫な子を産ませることができるように子供の頃はひたすらスポーツ。おそらく、スパルタの女性は筋肉だらけだったでしょう。ところで、子作りに効果はあったのかな?
○ペロポネソス戦争
さて、話はデロス同盟の頃へ。
デロス同盟結成は、スパルタにとって大きな敵の発生でした。そのためスパルタはこの同盟に加わらなかったコリントなどとペロポネソス同盟を結成し、これに対抗。もちろん両者は仲が悪く、植民地を巡って前431年に戦争を開始します。ペロポネソス戦争です。
戦争自体はペロポネソス側のテーベがアテネを攻撃したことに始まります。これに対しアテネはペリクレスの発案で籠城戦に持ち込みます。ところが、運悪くエジプトから疫病(ペストか?)が伝来し、市民の3分の1が死亡するという最悪の結果を招き、ペリクレスの息子2人も死んでます。それから程なくペリクレスも死亡。しかし、引き続き戦争は継続されます。
そして人口の多くを失ったアテネ側は、クレタ島などから傭兵を雇い入れます。 これにより一時は、アテネが有利でした。しかし和平を結べばいいのに、指導者達はなおも戦争を続けます。
そんな中、前413年、アテネはシチリア島遠征(代表都市にシラクサ イタリア半島の下にある島)で、シチリア・スパルタ連合軍に敗北し、デロス同盟は離反が相次ぎます。そこですかさずスパルタはアテネの農地を荒廃させ、また仇敵であるはずのペルシアの援助をもらって、海軍を結成させます。そして前404年、ついにアテネは敗北し、スパルタに降伏したのでした。
しかし、スパルタの支配も長く続かない。おそらく少ない人口がネックだったのでしょう(違っていたらご免なさい)。すぐにスパルタの勢力は衰えてしまいます。その代わりにテーベが台頭しますが、これも長続きせず。ひたすら混乱状態に陥ってしまうのでした。国土は荒廃し、また一方で貨幣経済を基盤とする交易によって、貧富の差が広がり、貧乏人続出。
この貧乏人続出、は国土防衛にとって大きな問題です。
といいますのも、それまで兵士は余裕のある人達が祖国を守るために戦っていたようなもの。それが崩れたため、アテネのみならず、各ポリスで傭兵を雇うことになりました。しかし、もはや地盤沈下は止められようもありません。 国土が荒廃する中、お金と土地を失った人々は各ポリスの傭兵となりながら戦い続けました。
そして、時代はアレクサンダー大王による征服と東方遠征へ移ります。
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