第17回 東ローマ(ビザンツ)帝国
○今回の年表
395年 | ローマ、東西に分割。 |
431年 | エフェソス公会議で、ネストリウス派をキリスト教の異端とする。 |
427年 | (朝鮮) 高句麗、平壌に遷都。 |
470年頃 | (インド)ヒンドゥー教が成立。 |
476年 | 西ローマ帝国滅亡。 |
481年頃 | 西ヨーロッパで、メロヴィング朝フランク王国が誕生。 |
527年 | ユスティニアヌス1世が即位。 |
531年 | ササン朝ペルシアでホスロー1世が即位し、東ローマ帝国と交戦。 |
555年 | イタリア半島の東ゴート王国、東ローマ帝国に滅ぼされる。 |
589年 | (中国) 隋の文帝が、中国を統一 |
593年 | (日本) 聖徳太子が摂政として政治を行う。 |
610年 | ムハンマドがイスラム教を開き、次第にイスラム帝国誕生。ササン朝、東ローマ帝国とも交戦。 |
618年 | (中国) 隋に代わって、唐が誕生。 |
651年 | イスラム帝国がササン朝ペルシアを滅ぼす。 |
○東ローマ帝国の隆盛
東西分裂後、早々に滅亡してしまった西ローマ帝国と違い、東ローマ帝国はその後1000年近くも盛衰を繰り返しながら存続しました。また、ローマ帝国の正統であることを強く意識し、機会あれば復興を考えます。
そんな中、一時的ですがローマ帝国領の大部分を回復した皇帝がユスティニアヌス1世(位527〜565年)です。叔父ユスティヌスの跡を継いで皇帝になりました(もっとも、叔父は無学な将軍だっため、副帝として以前から政務を執っていた)。
ローマ復興に燃える彼は533年、将軍ペリサリオスに命じ、アフリカの旧カルタゴにあるヴァンダル王国を征服させ、引き続きシチリア、そして20年かけてイタリアを支配していた東ゴート王国を滅ぼします(555年)。さらに、それに先立つ554年にはイスパニア(今のスペイン)の東南部を西ゴート王国から奪います。こうして、フランス地域などは無いものの、旧ローマ帝国領の大半の回復に成功しました。
しかし、都がローマに戻ることはありませんでした。もはや、ローマは戦争による荒廃で使い物にならず、その中でローマ人達も姿を消しました(死んだり、他地域に散りぢりになった)。そして、属州が置かれますが州都はラヴェンナに置かれます。皮肉なことに、東ローマ帝国の戦争のためにローマは完全に滅んだのです。そして、この後キリスト教の教皇領として復活します。
さて、ユスティニアヌス帝と言えば、もう一つ「ローマ法大全」の編纂をさせたことで歴史的に名高い。この人のすごいところは、自らも法学の知識を多分に持っており、注釈付けなどを行っていることです。命令だけして、ボクの功績〜という訳ではないのです。
また、聖ソフィア大聖堂を造り、その後のギリシャ正教総本堂となります。ちなみにこの時、地権者の1人は断固反対!と土地を譲りませんでした。そこでユスティニアヌスは、競馬場の皇帝専用席に地権者を座らせ、観戦させてあげるという条件で契約しました。この男に限らず、この時代はローマ時代から続き競馬が大ブームです。
なお、そんな輝かしいユスティニアヌス帝にも影の部分が。
彼は、戦争を多く行うためお金が必要でした。そのため重税をかけ、まだ本格的に戦争を開始する前後の532年、コンスタンティノープルの市民達が、競馬場で反乱を起こします(競馬場は、その人気さ故に、しばしば政治の舞台ともなった)。「ニカ!(勝利せよ!)」と叫んだため、この反乱はニカの乱と呼ばれます。ユスティニアヌス帝は逃亡を決意しましたが、妃のテオドラはこう言いました。
「亡命して死ぬより、帝衣を着て死ぬ方がよい(帝衣は最高の死装束である)」
つまり、どうせ逃亡したって捕まって殺されるのよ、だったら皇帝であるうちに出来る限りのことをおやり!ということです。そりゃあそうだ!ということで、東方で戦っていた将軍ペリサリウスを戻らせ、反乱に参加した3万の市民を皆殺しにしました。そして、この時を境に「パンとサーカス」政策も終わらせたのでした。さらに、元老院を皇帝の下に絶対服従させることにも成功したのです。
おっと、ここで東方という言葉が出てきました。ユスティニアヌスといえば東方の関係も見過ごすことが出来ません。
彼の叔父の時代より、ササン朝ペルシアという国家と戦闘が繰り返され、一進一退が続いてきたのですが、530年、弱冠25歳のペリサリウス将軍により、ダラの戦いで4万のペルシア軍を2万5000で打ち破ります。この時のペルシア国王カワード1世(位488〜531年)は「こりゃあ敵わねぇな」と感じ、和議を結ぶことにします。ところが、カワード1世は脳卒中で死去。
その跡を継いだのはホスロー1世(位531〜579年)です。ササン朝の最盛期を作り上げた人物で、領土を中央アジアにまで拡大させ、また文化の保護にも力を入れ、東ローマ帝国では異端とされたギリシア哲学を保護し、発展させたことで有名な王です。この王は、ニカの反乱で苦しむユスティニアヌスに対して和議を申し込みます。
532年に、お互いが占領地を割譲したり、軍司令部を撤退したりと譲り合う形で批准されました。ただ、東ローマ帝国はササン朝に対し、1万1000ポンドの金貨を払うことになります。金で買われた和平でした。こうして、ユスティニアヌスはヨーロッパ侵攻に力を入れることが出来たのです。
この和平は、540年にホスロー1世が破りますが、その後545年に休戦条約が結ばれ2度の延長の末「50年の和平条約」を締結して戦争を終結させました。この時商業に関する取り決めも行われています。そう、商人がこの辺りを良く往来していたのです。そういった意味でも、戦争はさけた方が無難。ただし、東ローマ帝国は、毎年3万枚の金貨を払わされることになりました・・・。これは、財政に重くのしかかります。
しかし、ユスティニアヌスの没年まで続くことになりました。
「まで」・・・と、いうことは、ユスティニアヌスの死後、問題が発生したという意味です。