第21回 神聖ローマ帝国の誕生と仕組み


○何とも不思議な「帝国」

 神聖ローマ帝国って、ローマ帝国とどう違うのか? 何でドイツにあるのに、ローマなのか? ハプスブルク帝国とはどう違うのか? 選帝候って? 中に沢山王国があるんだけど・・・? 

 おそらく、一度歴史を勉強された方の中には、そんな疑問があると思います。既に少し登場していますが、今回は、そんな神聖ローマ帝国の誕生と仕組みを、まとめて見ていこう、というわけです。

 さて、神聖ローマ帝国とは962〜1806年に西ヨーロッパに存在したドイツを中心にした連邦国家であるといえます。初めから、神聖ローマ帝国と名乗ったわけではなく、11世紀にはローマ帝国、12世紀には神聖帝国、13世紀になってから神聖ローマ帝国、15世紀後半からはドイツ人の神聖ローマ帝国とよばれるようになります。

 そのスタートは既に見たとおり962年、東フランク王国のオットー1世がローマ教皇から「ローマ皇帝」の冠をもらった事にあります。

 で、この帝国の面白いところは、数多くの諸公国(バイエルン、ザクセンなど)、地方伯領、辺境伯領(ブランデンブルク、オーストリアなど)、さらにはボヘミア王国、イタリア王国などの大小様々な国家から成立していることで、全然中央集権体制ではなく、さらに皇帝の地位は世襲制でもありませんでした。

 特に13世紀初頭に有力な神聖ローマ帝国皇帝がいない、大空位時代が発生すると選帝候と呼ばれる人々が皇帝を選ぶことが慣例として発生し、1356年の金印勅書で、7人の(マインツ、ケルン、トリアの3宗教諸侯、ボヘミア王、ザクセン公、フランデンブルク辺境伯、プファルツ伯の4世俗諸侯)による選挙によって皇帝を選ぶことが制度化されます。まあ、悪く言えば彼らが操りやすい人物をドイツ王に選び、その人物をローマ教皇にローマ皇帝として認めてもらう、こういう仕組みになっているのです。

 ちなみに、神聖ローマ帝国が消えた後、紆余曲折の末、ドイツという国家が誕生しますが、各地域の独立性が強いのはご存じの通り。現在でも、各地域がそれぞれ独立した行政機関を持っていて、「州」ではありますが、国家のごとく、内閣まで存在します。それでも、時代を追うごとに小国家分立状態は大幅に減っていき、今にいたっているんですけどね。

○ハプスブルク家との関係

 後の回でも述べますが、ちょっとここにハプスブルク家との関係も書きましょう。
 こちらも後述するカノッサの屈辱などのあと、神聖ローマ帝国の皇帝の座は40年にわたって空白となります(これが先ほどの大空位時代)。もちろん有力になった選帝候達が、自分達の上に立つ皇帝を選ばなかったからです。しかし、それでは神聖ローマ帝国という枠組みが無くなってしまう。だから、いつまでも大空位状態ではダメなので、1273年、ハプスブルク家のルドルフ1世が「害はない」として、皇帝に選ばれました。ところが予想に反し、強力な勢力を作ってしまったので、彼のあとは長らく、ハプスブルク家の人間は皇帝に選ばれませんでした。

 その後、1404年に再びハプスブルク家に皇帝の座が。このあと、二度と他の家に皇帝の座が奪われないよう、「ハプスブルク家には逆らえない」というような、確固たる勢力をハプスブルク家は形成することに成功。1806年にフランスのナポレオンが侵攻し、神聖ローマ帝国という枠組みを壊されるまで、ハプスブルク家が神聖ローマ帝国の皇帝をほぼ世襲することになるのです。

 ただし、ハプスブルク家はオーストリア地域に領土がありましたから、引き続きここで「皇帝」を名乗ります。この国も含めて、よくハプスブルク帝国と言われるのです。

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