第27回 百年戦争!イングランドVSフランス

○今回の年表

1328年 (仏)ヴァロワ朝が創始する(〜1589年)。
1339年 イギリスとフランスで戦争開始。俗に言う「百年戦争」。
1347年 ヨーロッパ全土に黒死病(ペスト)が大流行し、人口が激減。
1350年 (タイ)シャムにアユタヤ朝が創始する(〜1767年)
1358年 (仏)農民(ジャックリー)の乱が起こる。
1389年 コソボの戦い。オスマン・トルコ帝国がセルビア連合軍を破る。
1393年 (中央アジア)ティムール帝国のティムール、バクダードを攻略。
1429年 (仏)ジャンヌ・ダルクがオルレアンの街を解放。
1449年 (中国)エセン・ハンが明の皇帝・英宗(正統帝)を捕虜にする。土木の変。
1453年 オスマン・トルコ帝国が東ローマ(ビザンツ)帝国を滅ぼす。
1453年 百年戦争終結。

○百年戦争勃発


 さて、イングランドはジョン王の失策、というか戦下手によりフランスにおける領土の大半を失いましたが、まだフランス北部フランドル地方などをかろうじて保持していました。特にこのフランドル地方は羊毛の生産・輸出拠点、さらにイングランドから見れば、大陸での軍事拠点として重要地域で、フランス王の侵攻が気がかりなところだったのです。

 そんな中、カペー朝に男子がなく断絶しました。当然、次のフランス国王は誰?ということになります。そこで、 フィリップ4世の甥、フィリップ6世が主張し、フランス王位に就きます(位1328〜50年)。この王様は、イングランドに対して、かの国の領地、南西フランスのアキテーヌを没収しようとします。

 認められるわけがありません。当然、次にフランドルも狙ってきます。ゆえに、逆にイングランド国王エドワード3世(位1327〜77年)が後継者に名乗りを上げます。根拠は、母親がフィリップ4世の娘イザベラ王女だったからです。血筋からいって直系に当たりますので、何ら不都合はありません。

 1337年、戦争が開始されました。これが、百年戦争(1337〜60年と1415〜53年)です。まず艦隊戦に勝利したイングランド軍は、イギリス海峡の制海権を握ります。これで、安心して兵員輸送可能。そして一時的に休戦した後、55年にエドワード3世の長男エドワード黒太子が、南フランスに侵攻して北上、フランス軍をポワティエで撃破し、フランスの西半分を占領。実益の観点から、「王位はいらないから、その統治を認めてもらいたい」と要求。1360年、フランス側はこれを受け入れます(ブレティニー・カレー条約)。

 これにより、一応の決着はつき、以後は小競り合いが続くものの取り敢えず小康状態になります。
 ちなみにイングランド軍の勝因は武器にあり。フランス軍は機械仕掛けの弩(いしゆみ、クロスボウ)を使い、イングランド軍は長弓を使いました。それぞれ一長一短あり、弩は特別な訓練無しで、ただ機械に矢をつめるだけで発射可能。しかも、命中精度も良い。ただし、矢をつめるのに時間がかかり、1分間に1発程度でした。

 一方の長弓。つまり、大型の弓ですが、こちらはある程度の訓練は必要。ただし、慣れれば矢をすぐに発射できるため、大体1分間に6発発射可能です。これが勝敗を分けた模様です。

 さらにもう一つ。イングランド軍は、純粋なイングランド兵が中心だったのに対し、フランス軍はフランス各地から寄せ集めた傭兵が中心でした。同じ傭兵とはいえ、フランスの場合は地域で独立性が強いため士気が上がりません。さらに、イングランド軍は給料などに対する細かい規定を設けていますが、フランス軍の場合財政難もあり、給料契約はいい加減で、さらに未払いもしばしば。これでは勝ちようがありません・・・。

 ちなみに停戦する2年前の1358年、フランスにおいて、国土の荒廃と領主の搾取に憤激したジャック(農民の意)の乱が発生しました。

○百年戦争再開とジャンヌ・ダルク


 1415年、エドワード3世の曽孫(ひまご)のイングランド国王ヘンリー5世は自ら軍をひきいてノルマンディに上陸。パリを含むフランス北部を制圧します。当時、フランス国王シャルル6世は精神病で、役に立たず家臣もニ派に分かれていました。さらに、ペストの影響、国土の荒廃が響き国力は大きく低下し、回復していません。

 で、ここに、フランスで最大勢力となっていたブルゴーニュ公国という国があります。ヴァロワ朝フランス王国第2代国王ジャン2世(位1350〜64年)が、末息子のフィリップのために、「公国」という地位と共に与えた物だったんですが、フィリップは、フィリップ豪勇公といわれたほどの人物で、結婚や外交政策で、領土を併合。豊かな地域を領有していた事から、本家・フランス王国もビックリの、強大な国にして、ヨーロッパ文化の中心にもなりました。

 で、ブルゴーニュ公国第3代のフィリップ善良公は、イングランド国王ヘンリー5世が、シャルル6世の娘カトリーヌと結婚し、フランス王を兼ねるという条件でトロア条約を結んで、同盟します。整理すると、フランスの一部だったブルゴーニュ公国が、イングランド国王をフランス王として認め、同盟をした、ということです。

 そして1422年に、ヘンリ5ー世、フランスのシャルル6世が相次いで急死すると、ヘンリ5世とカトリーヌの息子、ヘンリ6世(位1422〜61,70〜71)が、なんと生後9ヶ月で即位。フランス北部では王として認められ、「フランスとイングランドの国王」を称します。

 一方、フランス南部ではシャルル6世の息子、シャルル7世(位1403〜61年)が王とされます。これに対し、イングランド軍はロアーヌ川中流域の、オルレアンの町を包囲します。かの町より南西にあるシノン城にいるシャルル7世は、抵抗する戦力が無く、ただイングランド軍の攻撃を傍観するしかありませんでした。

 その時、一つの奇跡が起こりました。いや、果たしてそれは奇跡だったのか・・・。とにかく、オルレアンの町を包囲していたイングランド軍は退却します。弱冠17歳の聖少女ジャンヌ・ダルク(1412〜31年)が率いたフランス軍がこれを打ち破ったのです。

 ジャンヌ・ダルクについては様々な本、漫画にもなっており今更書き立てる必要もありませんが、折角ですから多少ご紹介しましょう。彼女はフランス北東部にある、ドンレミ(現ドンレミ・ラ・ピュセル)の農家に生まれ、13歳の時、天からの声を聞いたと言われています。そして1429年のオルレアン包囲の時、「ジャンヌよ、シャルル王太子を救うのだ」という天の声を聞き、ジャンヌはシノン城のシャルル7世に面会。神学者・聖職者の立ち会いの下、フランス王としての使命を説いて、シャルル7世から白い馬と甲冑を貰いうけ出陣。イングランド軍を見事撃破し、寄せ集めとはいえ、奇跡を信じ、勢いを得たフランス軍はイングランド軍を次々撃破していきます。

 シャルル7世はこれにより正式に即位することが出来ました。式典はランスの大聖堂で行われました。そして、ジャンヌは引き続きイングランド軍をフランスから追い払うべく、ノルマンディーに出陣。ところが、1430年にブルゴーニュ派の軍に捕らわれます。これに対しシャルル7世はジャンヌを無視。助けようとしませんし、また身代金を払って解放して貰おうともしません。

 フランスの勝利が確実になった以上、シャルル7世にとってジャンヌは無用の長物でした。また、シャルル7世はブルゴーニュ公との和解を目指していたのに対し、あくまでジャンヌはイングランドを倒す方を優先していました。

 ジャンヌは、イングランドに売りわたされます。イングランドはジャンヌを異端および魔術使い、つまり魔女の疑いで審判にかけよと、ルーアンの教会裁判所に要請。 14回の異端審問の後、
 ・男装という不当な行為をした
 ・教会を経由せず、直接、神と対話したと信じた
という理由で、有罪とし死刑に。31年5月30日、ジャンヌはルーアンの町の広場で火刑に処せられました。火刑には、魔女としての能力を失わせ、同時にシャルル7世に対する見せしめという意味も込められています。なお、魔女については、また今度お話しします。

 なお、ジャンヌの名誉は1456年の復権訴訟で回復。1920年にはローマ=カトリック教会により聖女とされました。ちなみに、ジャンヌについては死亡直後から「彼女を見た!」などという噂が飛び交い、またさらにはそもそもジャンヌという存在は、フランス軍を勇気づけるために作られたものだ等とも言われています。考えてみれば、なぜ農家の娘がシャルル7世に面会できたのか(シャルル7世の妹だったという説もある)、どうして少女に戦争が出来たのか。疑問点は色々出てきます。

 さて、1435年、シャルル7世とブリュゴーニュ公が和解(アラスの和)します。そしてフランスは37年、パリを奪回。53年になり、カレーを除く全地域からイングランド軍を撤退させ、百年戦争を終結させました。

  なお、シャルル7世は常備軍を設置したことで有名です。それまで、戦争が起こるたびに傭兵を雇っていました。しかし彼は、貴族の部隊と平民によって構成された民兵隊を組織。運営費は前者は都市、後者は小教区の負担とし、その後の絶対王政の基盤となります。そして、火砲が本格的に普及を始めると、重厚長大の鎧に固められた騎士はその役目を終え、以後は官僚として王の下で働くようになります。シャルル7世は、この官僚制も整備しました。

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