第35回 ユグノー戦争〜フランス絶対王政への道

○今回の年表

1562年 ユグノー戦争勃発(〜98年)。
1572年 サン・バルテルミの大虐殺。
1582年 グレゴリウス13世が暦を改暦。現在の太陽暦が成立する。
1589年 ヴァロワ朝が断絶し、アンリ4世がブルボン朝を興す。
1600年 (日本)関ヶ原の戦い。
1604年 フランス、カナダに植民を開始。
1618年 神聖ローマ帝国で三十年戦争。フランスは新教徒側に援助し、ハプスブルクと戦う。
1624年 リシュリューが宰相として活躍(〜42年)
1642年 (イギリス)ピューリタン革命(〜49年)。チャールズ1世の処刑とクロムウェル独裁。
1643年 ルイ14世即位。
1644年 (中国)明が滅亡し、満州族の清が中国を統一する。
1648年 三十年戦争終結。初の国際条約・ウエストファリア条約締結。また、フロンドの反乱。
1700年 北方戦争(〜21年)。スウェーデンとロシアが戦争。ロシアのピョートル大帝の勝利。
1701年 スペイン継承戦争(英・蘭・独VS仏・スペイン(〜13年)。

○ユグノー戦争

 今も昔と変わらないと申しますか、宗教的な動機と、政治的な対立が絡むと収集不可能な戦争が勃発してしまいます。ヨーロッパ各地で怒った旧教と新教の対立は、まさにそうでしょう。彼らは、昔の「異端」と同じようにお互いを認めず、これに貴族同士の争い、諸侯の思惑が絡んでしまうものですから仲直りのしようがありません。今度は、フランスを見ましょう。  長らく王権の弱かったフランスは、百年戦争終結をきっかけに官僚制の整備と中央集権化を進めたのは前述の通りです。ところが、なんと宗教改革はここにも飛び火。ここに来たのはカルヴァン派のプロテスタントですが、これとカトリックの対立に、政治的な対立も絡み、血みどろの宗教戦争がスタートしてしまいます。

 その、最たるものがユグノー戦争です。1560年、まだ幼少のシャルル9世が王位につき、母親のカトリーヌ(メディチ家のあの人)が政治をとりますと、62年にカトリックVSプロテスタント(=ユグノー・・・カトリック側からの蔑称)で内戦が発生します。

 ここで王室は、宥和政策を採ります。70年には、ユグノー側の大物・ナヴァラ王アンリと、シャルル9世の妹マルグリットが結婚することになり、8月18日、パリで盛大な婚礼がおこなわれます。ところが、パリにユグノーの大物が参集した6日後、サン・バルテルミの大祭に出席したユグノー達の大虐殺が行われました。このサン・バルテルミの大虐殺でユグノー側の指導者コリニーらが死亡。怒ったユグノー側はドイツの新教徒、イングランド・オランダと手を結び、一方旧教側はスペインの介入を招き、内戦は泥沼化。

 1588年、シャルル9世の跡を継いだ弟のアンリ3世は、旧教・新教どっちつかず。そのため旧教徒の修道士に暗殺されてしまい、ヴァロワ朝の血筋が絶えてしまいます。そのためナヴァラ王アンリは、先に述べた通りマルグリットと結婚していたため、即位しブルボン朝を開くことを宣言(アンリ4世 位1589〜1610年)します。

 ですが、そんな勝手は旧教徒は認めません。アンリ4世はパリ入りを拒まれます。そのため彼は旧教に改宗。一方新教徒に対してはナントの勅令を発布し、信仰の自由を認めることで決着をつけ、内戦を終結させました。そして租税の軽減や農民の保護政策を打ち出します。

 こうして、このブルボン朝の下で、フランスの王権は最盛期を迎えます。ですが、アンリ4世もまた1610年に暗殺されてしまいました。

 ちなみにアンリ4世は女好きで。19世紀の歴史家ミシュレは、女性のためなら戦争中でも百姓姿に身を変えて出向くと揶揄しています。一方、1599年に政略結婚したマルグリットとは離婚。もっとも、こうした奔放な性格とまた陽気さは多くの人を引きつけたと言われています。英雄、色を好む。

○ルイ13世とリシュリューの時代

 さて、彼の跡を継いだのがルイ13世(位1610〜43年)。彼はマルグリットの子供ではないため、ヴァロワ朝の血筋は引き継がれていません。

 当初はルイ13世の母親で、アンリ4世の2番目の妃であるマリー・ド・メディシス(1575〜1642年)と、彼女のお気に入りである側近のコンチーノ・コンチーニ(1575〜1617年)が政治の実権を握っていました。2人はイタリア人で、マリー・ド・メディシスは名前からわかるように、フィレンツェの名門メディチ家の出身です(※トスカーナ大公フランチェスコ1世の娘)。

 マリー・ド・メディシスは、カトリックを擁護し、フランスの敵であったハプスブルク家と子供たちの婚姻を勧めるなど、アンリ4世の政治を大きく転換。これが、ルイ13世や有力貴族の不満を高めます。まして、側近のコンチーニが好き放題やっているのですから、面白いはずがありません。

 これに対し、マリー・ド・メディシスは有能と名高かったリシュリュー(1585〜1642年)を登用して対抗しますが、ルイ13世は先手を打ち、コンチーニを逮捕して暗殺し、マリー・ド・メディシスを幽閉。一方、リシュリューは一時的に失脚するも、その能力を買われて宰相となり、フランス国王の王権強化に尽力。ルイ13世にとって必要不可欠な人物となりました。



リシュリュー
 さて、2人は次のような政策を採ります。

  ・アンリ四世死去に伴い、港町ラロシュルで反乱を起こしたユグノーを包囲戦で殲滅。
  ・ナントの勅令で秘密条項として盛り込まれた、プロテスタントへの政治的・軍事的譲歩を取り消し、弱体化。
  ・貴族に対しては、城塞の取り壊し、陰謀・反乱の摘発・鎮圧で弱体化。見せしめに斬首刑も。
  ・神聖ローマ帝国に対しては、三十年戦争(後述)で新教徒を支援し、帝国を弱体化。(が、フランスは財政悪化)
  ・王の任命する官僚を増加させ、貴族官僚や、売官などで位を得た者を追放。
  ・重商主義の採用で、交易などに精を出し、また海軍力を高める。

 ちなみに一般的にリシュリューと呼ばれますが、正しくはリシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシーという名前。フランス西部の下級貴族として生まれ、実力で宰相に上り詰めたのですから大した人物です。政策的にも内政から外交、軍事まで縦横無尽の大活躍。

 マリー・ド・メディシスは、何とか彼をルイ13世から排除しようと画策しますが、とうとう上手く行きませんでした。

 そしてリシュリューが亡くなった半年後にルイ13世も死去。息子のルイ14世の治世に移ります。

○ルイ14世とマザランの時代




 ルイ14世(位1643〜1715年)は、72年にも渡る在位を誇りました。
 彼の時にフランスの王権は最高に達しますが、最初から最高だったわけではありません。病死した父の跡を継いだのは4歳の時。両親が結婚23年目にしてようやく誕生した子供であったため、幼い。

 リシュリューは後継者として、腹心のジュール・マザラン(1602〜61年)を推挙し、彼が宰相となりますが、前述のようにルイ13世とリシュリューがほぼ同時に亡くなる状況でしたから、脆弱な権力基盤で政権がスタートします。

 マザランはまず、三十年戦争で逼迫した財政の立て直しを目指します。
 このため、人件費カットを推進。お金で官職を得た者に対し、給料を支払わらないことにしたのです。当然ながら、既得権を奪われた人たち、特にパリの高等法院に拠点をおく新興特権階層が猛反発。さらに、市民たちも「税金が高い!」と反発し、1648年8月に彼らは王宮を包囲しました。

 これに対しマザランは、三十年戦争でフランスを勝利に導いた名将、コンデ公ルイ2世(1621〜86年)に軍を率いさせ、軍事力で彼らを屈服させます。ところが、コンデ公の発言力が高まったことから、マザランはコンデ公を逮捕!当然のことながら、これでコンデ公を支持するグループまで敵に回してしまいました。

 この結果、1651年にルイ14世とマザランは追い詰められてパリを脱出。
 パリはコンデ公らが掌握することになりました。

 しかし、コンデ派は反ルイ14世という同床異夢で協力していただけ。「我が世の春よ再び」と、既得権を取り戻そうとする旧貴族などのグループとコンデ公らは対立。

 ルイ14世は、やはり三十年戦争で活躍した名将、テュレンヌ子爵アンリ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュ(1611〜75年)の力を得て、再びパリを掌握することに成功。コンデ公はスペインに亡命し、しばらくはスペイン軍の客将として、ティレンヌ率いるフランスと戦うことになります。

 さて、これによってルイ14世はすっかりパリが嫌いになり、新しい宮殿を郊外に造ることに。それが、ヴェルサイユ宮殿というわけです。もちろん、自分の理想の宮殿を新規に造りたいという気持ちもあったのでしょう。



ヴェルサイユ宮殿

ヴェルサイユ宮殿「鏡の間」  鏡の間は、全長73mで高さ13m。17面ものアーチ状の鏡と窓が向かい合い、54基ものクリスタル製のシャンデリアが並びます。通常は王が礼拝堂に赴くときに使用する通路で、かつては王の後ろを延臣たちがゾロゾロついていく風景が、日常的に展開されていたようです。
 さらに、ルイ14世が23歳の時にマザランが死去し、いよいよ国王の親政が開始されます。

 ルイ14世は財務総監に平民のジャン=バティスト・コルベール(1619〜83年)を登用。次第に外務や陸軍以外、様々な総官職も兼務させ、フランスの産業育成や交易の推進に力を入れ、また科学や音楽などのアカデミーの創設によって、芸術分野に至るまで、国家として人材育成に努めます。

 さらに、ティレンヌをフランス王軍の大元帥とし、その少し前からコンデ公もフランスに復帰し、フランス軍は強力な名将の元で各地の戦いに挑んでいきます。

 特に、南ネーデルランド継承戦争オランダ侵略戦争ファルツ戦争の3つに代表されるような戦争を行い、晩年にはスペイン継承戦争を起こし、ハプルブルク朝からブルボン朝に王の座を移しました。

○スペイン継承戦争

 スペイン継承戦争について、詳しく見ていきましょう。

 当時、スペイン王カルロス2世は嗣子がないまま死去。遺言で、ルイ14世の孫フィリップに王位を譲ります。何故かというと、フィリップの祖母・つまりルイ14世の1番目の妻がカルロス2世の姉だったから。ところが、神聖ローマ帝国皇帝レオポルド1世は黙っていない。うちの息子・カールに王位を継がせるべきだと主張し、戦端が開かれます。イングランドなど大半はローマに味方。一方、フランスには味方無し。

 ところが、神聖ローマ帝国を継ぐはずだったカールの兄が死去。カールの他にレオポルド1世の息子は無く、結局カールが6世として即位。そのため、スペイン王位は諦め(カール5世の時のように、一人の王が広大な領土を支配するのを諸外国は許さなかった)、一方フランスも「あくまでフランスとスペインは別の国!統合しない。」と宣言させられ、フィリップを王位に就かせます。が、一部領土をイングランドに割譲するハメになり、結局得た物は名誉だけ。

 もっとも、スペインのブルボン朝は現在も続いています。

 しかし、これらの戦争は国家財政に重くのしかかり、フランスは衰退していくのです。ルイ14世が死去した時、国民は歓喜の声に包まれたとか。ただ、戦略家でもあるルイ14世は近代的な軍制を整え、徴兵制を導入。それまでの傭兵と貴族のお遊びのような戦争から脱却させました。

 それから、彼はユグノーを弾圧します。現在、フランスはカトリックが大半ですが、これが要因でしょう。

 また、彼は長生きしたが故に、スペイン王位についたフェリペ5世をのぞいて、子と孫のすべての死にたちあうことに。そして、王位は曽孫のルイがルイ15世として継承することになります。華やかな絶対王政の裏で不幸なことでございます。

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