44回 アメリカ独立戦争

○今回の年表 (長くてご免なさい)

1492年 コロンブスが北アメリカに到達する。
1603年 (日本)徳川家康が江戸幕府を開く。
1604年 フランスがカナダに植民を開始。
1607年 イギリスがヴァージニアに正式の植民。
1620年 清教徒(ピューリタン)が北アメリカに移住。
1626年 オランダがニュー=アムステルダムを建設。
1644年 (中国)明が滅亡し、清王朝による中国本土の統治が始まる。
1664年 ニューアムステルダムがイギリスに奪取され、ニューヨークと改名。
1682年 フランスがルイジアナに植民を開始。
1688年 (イギリス)名誉革命が起こる。
1689〜97年 英仏植民地戦争が起こる。
1716年 (日本)徳川吉宗を中心に、享保の改革が始まる。
1735〜95年 (中国)清の乾隆帝による統治。
1755〜63年 フレンチ=インディアン戦争が起こり、パリ条約が結ばれ講和する。
1756年 (オーストリア)作曲家モーツァルトが誕生。数々の名曲を作曲し、1791年没。
1757年 (インド)プラッシーの戦い。イギリスのインドにおける勢力が確立。
1762〜96年 (ロシア)エカチェリーナ2世による統治。
1764年 イギリスが砂糖法を施行。
1769年 (イギリス)ワットが蒸気機関を改良。
1773年 ボストン茶会事件。
1774〜92年 (フランス)ルイ16世による統治。
1775〜83年 アメリカ独立戦争が起こる。
1776年 アメリカ独立宣言。翌年には星条旗が制定。
1783年 イギリスで小ビット内閣が成立(〜1801年)。
1783年 パリ条約が結ばれ、イギリスとフランスがアメリカ合衆国の独立を承認。
1787年 アメリカ合衆国憲法が制定。
1789〜97年 初代大統領にワシントンが選ばれ、統治が行われる。
1792年 (フランス)王政が廃止。翌年、ルイ16世が処刑される。

○はじめに


 いきなり随分と長い年表になってしまいましたが、これでアメリカとイギリス、フランス、その他諸国の関係をまとめてみて頂ければ幸いです。それでは、アメリカ独立戦争について解説していきましょう。ここまで来るのにかなり時間がかかったような・・・。

 ちなみにアメリカ、アメリカ、と連呼しますけど、ここで取り扱うアメリカは、今のアメリカ合衆国の東部にある13植民地。

 イギリスによって最初に造られた植民地がヴァージニア植民地(1607年)、13番目がジョージア植民地(1732)年です。そこに住む人々ですが、いずれも、造られた動機は様々ですけど、やはり新天地にわざわざ移住しようと考える人達ですから、既存の身分や価値観とは水が合わん、本国の支持が不満だ、という人が中心。

 さらに当時、貧乏人は、そう簡単に移住できませんから、比較的知的な中流階級が多いです。また、現地民であるインディアンを追い払い、労働力不足のために、特に南部地域では黒人を奴隷としてアフリカから輸入しています。

 そして彼らは、自分たちの植民地ごとに議会を設けて、イギリスの支配を受けながらも自治を行っていました。
 同時に、13の植民地が「我々はアメリカ国民である!」な〜んて、横の連帯意識が芽生えていくのは、まだあとのことです。さてさて、どのようにしてアメリカは独立していったのでしょうか??
 *地図:外務省ホームページより編集

○アメリカはイギリスにあらず

 今まで見た通り、イギリスはアメリカにおける植民地の優位性を確保すべく、数々の手を打ってきました。そして、1763年には、フランスを北アメリカから(ほぼ)追い出すことに成功し、アメリカにおける覇権を確立します。
 *ちなみにミシシッピ川東岸にいたフランス系住民は移住し、サンルイ(セントルイス)を建設していますし、後にフランス革命が起こると王党派4万人がカナダのケベックなどに移住し、今に至るまでフランス人社会を築いています。

 さて、覇権を確立したらどうするのか。
 当然、それまでアメリカのために使った資金を回収しないと大赤字です。少なくとも、アメリカに駐留しているイギリス軍の経費ぐらいはアメリカからの収入で賄いたいと考えます。

 そこで1764年、イギリス首相ジョージ・グレンビルは密貿易の取り締まりも兼ねて砂糖税法を議会で制定。

 ん、密貿易って何だ?
 はいはい、実を言うと1733年、イギリス議会は「外国」産の糖蜜1ガロンにつき6ペンスの関税を課す、という糖蜜税法を制定していたんです。糖蜜というのは、どろどろした褐色の液体で、カンショ糖など糖を精製する際に、副産物として生じるもの。アルコールの発酵に使われますから、お酒造りには必要。

 そして、外国というのはイギリスは含まれていませんから、当時、ヨーロッパで一般的だったラム酒を作る場合に必要な糖蜜を安く手に入れるためには、以前よりは少々高くなるけど、イギリス本国(もしくは他のイギリス植民地)を経由して買わざる得なくなるような、政策を打ち出したんですね。もちろんこうしますと、仲介業者であるイギリス本国が儲かります。

 だがしかし・・・とアメリカの人達は考えます。

 そうだ! 原産地から密かに輸入しちゃえばいいじゃん!
 ということで、アメリカでは密貿易が盛んになるのです。そして、イギリスは当時、まだフランスと植民地戦争の総仕上げの段階であったこともあり、取り締まりは殆どしていなかったのですが・・・戦争が終わってしまえば話は別。そこで成立させたのが、先ほどの砂糖税法というわけです。

 まず第一に、密貿易の大幅な取り締まりに乗り出します。
 次に、糖蜜にかかる関税は引き下げます。これによって、密貿易をする必要性は減少させます。
 その代わり、砂糖にかける関税を大きく引き上げ、さらに新たにマデイラ酒(ブドウ酒)に関税をかけることにしました。ジョージ・グレンビル首相にしてみれば、アメとムチの政策だったんだと思いますけど、アメリカ側は激怒します。

○印紙税法

 さらに1765年、植民地のあらゆる公文書、証書、売買契約書、新聞、パンフレット、トランプなどに政府発行の印紙をはることをさだめた印紙税法を制定しました。つまり、何か正式な文書を作る際には税金を払え、と言うことです。トランプというのが気になりますが・・・(笑)。

 当然のことながらアメリカの人達は怒ります。そもそも、イギリス議会にはアメリカから選出された議員はいないにもかかわらず、勝手に本国が税金を課す法律を成立させるとは何事だ!ということです(「代表無くして課税無し」)。しかも例えば当時、ニューヨークにはオランダ人、ドイツ人など多数の国から商人が集結しており、10ヶ国語以上の言語が話されていたほどの国際都市でした。何故イギリスの言いなりになって税金を払う必要があるのか!と激怒したのです。

 しかもですよ、皮肉にもイギリス本国が7年戦争でフランスを北アメリカから追い出したことにより、フランスによって自分たちの植民地が侵略される危険性は薄くなっていたのです。もう、イギリスなんかに頼る必要はないぜ!

 そこで、暴動が起こります。
 さらに、アメリカの商人達はイギリス製商品の輸入を停止する協定を結び、イギリス経済に打撃を与えます。

 その結果、イギリス本国でも商人達が反対を始め、結局、2年後にこの印紙税法は撤回されました。しかし、イギリスとアメリカ側の対立はこれで収まるわけではありませんでした。また、砂糖税法はアメリカ独立革命まで存続します。

○ボストン茶会事件

 1767年になると、イギリスは再びアメリカに関税をかける法律を成立させます。
 提案者の財務大臣の名前をとって、タウンゼンド諸法と呼ばれる法律群で、紅茶、紙、鉛、塗料、ガラスなどに輸入関税をかけることにしたのです。当然のことながら、再びアメリカでは反対の声が上がり、イギリス製品不買運動が行われます。そこでイギリスは、反対の声が特に強かったボストンに軍を派遣。

 1770年、イギリス軍はボストンの群衆に向かって発砲し、死傷者がでます。
 いわゆるボストン虐殺と呼ばれる事件ですが、これによってさらに反イギリスの感情が高まります。そこでイギリスは茶以外には関税を撤廃しますが、時既に遅し。抗議の声はどんどん大きくなっていきます。イギリスも、アメリカへ課税するぞ、という強い意思表示、及び、イギリスの東インド会社救済もあって、茶の関税は撤廃しなかったのですが・・・。

 これにアメリカ側は怒りがぐんぐん増加していき・・・。

 1773年12月、いわゆるボストン茶会事件が発生。
 ボストン市民は、サミュエル・アダムズを中心にアメリカ先住民(インディアン)に変装し、イギリスの東インド会社の船に乗り込みます。そして、この船が積んでいた輸入のお茶の箱をボストン港に投げ捨てるという抗議行動に出ます。 そこでイギリスは港を封鎖するなど強圧的措置をとって報復にでるものですから、もう対立はヒートアップ!!

 さあ、どうなっちゃうのよ。
 後半に続きます。


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