56回 プロイセンからドイツ帝国へ

○ウィーン会議後のドイツ

 イタリアと並んで、紆余曲折を経て成立したドイツ。
 それでもイタリアと違って、ドイツ人という区分は古来より漠然とした形であったようですが、だからといって長い間、正式に「ドイツ」という国家が誕生することはありませんでした。強いてあげれば、神聖ローマ帝国でしょうか。そんなドイツが誕生するキッカケの1つになったのがナポレオンによる神聖ローマ帝国崩壊と、プロイセン王国の大幅弱体化。

 このうち、プロイセンではシュタインハイデンベルクが徹底した国政改革を行い国力を回復・増強、さらにフォヒテという人物が「ドイツ国民に告ぐ」という講演を行い、さらにナポレオンを打倒したことから、ドイツとしてのナショナリズムが高まります。そして、ナポレオン戦争後のウィーン会議でドイツ地域にある35の君主国と、4自由市からなるドイツ連邦が成立するのです。

 このドイツ連邦は、オーストリアが議長国を務め、連邦議会をフランクフルトに置きました。
 また、1833年には歴史学派経済学者のリストの提唱によって、ドイツ関税同盟が成立。経済面から統合していこうという動きが広がっていきます。このあたり、ヨーロッパ人という概念と、EC(EU)成立の道のりなんかを想像して頂けると、どうやってドイツが成立していくのか、イメージがつかみやすいんじゃないかなと思います。

 さて1848年、フランスで二月革命が起こりウィーン、ベルリンにも波及。いわゆる三月革命であり、このうちオーストリアでは宰相のメッテルニヒが失脚したことは、何だかもう何度も述べているような気がします(笑)。何回も失脚させてご免なさい。そして、これを受けて同年、フランクフルト国民議会が開催されます。

 このなかで、いよいよドイツ統一に向けた話し合いが行われるのですが、
 大ドイツ主義・・・オーストリアを中心に統一 VS 小ドイツ主義・・・プロイセンを中心とし、オーストリアを排除
 という2つの考えたかが対立したのですが、プロイセン王自身が「まだドイツ統一の時期ではなく、うかつにドイツ皇帝になるのは得策ではない」と、乗り気でなかったこともあり、ドイツ統一は失敗に終わりました。

 ところが、そのプロイセン自身が結局、ドイツ統一に向けて動き出します。
 その鍵を握ったのが、プロイセン王ヴィルヘルム1世と、首相のビスマルク(1815〜98年)
 まずは、このビスマルクについて紹介せねばなりますまい。

○異端児・ビスマルク

 ビスマルクはよく知られているように、プロイセンの貴族(大地主)であるユンカーの出身。ベルリン北西のシェーンハウゼンで生を受けました。1847年にプロイセン連合州議会議員となり、プロイセン王に熱い忠誠を誓う議員として有名になります。時の国王、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世もビスマルクを気に入り、1851年にオーストリアを盟主とするドイツ連邦が成立すると、ドイツ議会のプロイセン代表としてビスマルクを選び、59年にはフランス大使、61年にはロシア大使となり、こうしてビスマルクは、各国の状況を勉強することが出来たのです。

 転機となったのは1862年のこと。
 新しい国王となったヴィルヘルム1世は、議会から「義務兵役期間を3年から2年に短縮しないと、軍の追加予算を認めないぞ!」と突き上げられており、事態の打開に迫られていました。そこで思いついたのは「そうだ、ビスマルクを登用してみよう!」ということでした。こうして、ビスマルクはプロイセン王国の首相に任命されます。こうして、ビスマルクが行った演説がこれ。
 「現在の大問題(=ドイツの統一)は演説や多数派の決議によってではなく、(中略)鉄と血によってのみ解決されるのだ」
 つまり、
 「軍備を増強してプロイセン主導でドイツを統一するんだ、寝ぼけたことを言うんじゃねえ。」
 いわゆる鉄血政策(軍備拡張)を表明したものです。え、後半部分は意訳しすぎ?

 同時にビスマルクは、さすが外交畑を歩んだだけだって、単純に武力で物事を解決しようとは考えません。急がば回れ&様々な布石をうつ、見事な策略を展開します。まず1863年、ドイツ北方のシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国が、デンマーク王国の下に帰属するのか、プロイセン王国の下に帰属するのか、を巡って紛争が生じます。

 そこで1864年、オーストリアと共同でデンマーク王国に対し攻撃。デンマーク戦争を行います。
 結果、この戦争に勝利したプロイセンはシュレスヴィヒ、ホルシュタイン地域を獲得します。って、オーストリアはなにも貰えないのかよ、というのですから当然仲違いします。しかし、そんなことはビスマルクにとって想定内。しかもこの戦争勝利によって、プロイセン王国民もビスマルク万歳!となります。

 そして1866年、プロイセン・オーストリア戦争が勃発します。
 ここで注意しないといけないのが、フランスのナポレオン3世でした。いくら何でも、オーストリアとフランスが手を組んでプロイセンと戦うとまずい。そこで再び外交の登場。ビスマルクは言葉巧みに、フランスのナポレオン3世を中立にさせることに成功し、さらに新たに登場したイタリア王国を味方につけます。こうしてプロイセンは、オーストリアとの戦争の勝利し、プラーグの和約が結ばれ
  @ドイツ連邦を解体する(翌年、プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を結成)
  Aシュレスヴィヒ、ホルシュタインはプロイセンが併合する
  Bオーストリアはヴェネツィアをイタリアに割譲
  Cオーストリアは賠償金を支払う
 ということが取り決められました。そして敗北したオーストリアは、かねてより不満が高まっていたハンガリー地域で独立を求める動きが活発化。結局、オーストリア=ハンガリー二重帝国を結成し、ハンガリー(マジャール)人にはオーストリア人とは別に自治を与えることで決着しました。

○ドイツ帝国成立へ

 さあ、ビスマルク首相。これだけでは終わらないんです。
 周囲の的を次々と巧みに撃破し、次なる相手はフランスを指名しました。なんて書くと冗談に思われるかも知れませんが、本当に指名しちゃったんです。すなわち1870年、エムス電報事件というのが起こるのですけどね。当時、1868年のスペイン革命によってイザベラ女王が退位し、空位となっていたスペイン王位に、プロイセン王家(ホーエンツォレルン家)支流の王子レオポルトが立候補し、フランスが反対していました。

 結局、これにビックリしたレオポルドの父親は息子の立候補を辞退させます。
 ならば問題は解決かといえばそうではない。メキシコ問題で外交上の失点を出していたナポレオン3世としては、ここらでプロイセンに対して、さらに優位に立っておきたかった。そのため、ヴィルヘルム1世による謝罪文と、レオポルドは二度と立候補しないという誓約書を出せ、と要求するのです。場合によれば、戦争をやっても良いと考えていたようで・・・。

 当然、プロイセン側はそんな屈辱を受け入れるはずがありません。
 ところがビスマルク。この交渉の内容を公表するのですが、フランスとプロイセンの反目が頂点に達するよう、内容を過激な物に変えてしまったのです。当然、両国で「戦争だ、相手をやっつけろ!」となります。ビスマルクとしては、早いところフランスを倒す口実が欲しかったようで、結局のところナポレオン3世がまんまと挑発に乗ってしまった格好になります。

 こうして、1870年に戦争が勃発。
 フランス軍20万に対し、プロイセン、南ドイツ連合40万人と兵力に大きな隔たりがあったこともあり、最終的にはセダン(スダン)の戦いでナポレオン3世はプロイセンの捕虜となってしまいました。これに怒ったパリの民衆は帝政を廃止し、共和政を宣言。しかし、プロイセン軍はパリに侵攻します。住民達は抵抗を続けますが、次第に食糧は尽き、弾薬も付き・・・ということで和平交渉をスタートすることにします。

 ・・・と、その交渉がスタートする前日(1871年1月18日)。
 なんと、あのヴェルサイユ宮殿に於いて「ドイツ帝国を成立する!」という宣言と、ヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式が高らかに開催されたのです。フランス王の象徴であるヴェルサイユ宮殿で、ドイツ建国式典が行われるという・・・。フランスにとっては大変な屈辱を味わうことになりました。そして、ビスマルクはドイツ帝国宰相に就任。

 そして追い打ちをかけるようにフランクフルト講和条約では
 @アルザス、ロレーヌ地方をドイツに割譲
 A50億フランもの巨額の賠償金をドイツに支払う
 という、やはり屈辱的な条約が結ばれることになったのです。これが後に、第1次世界大戦後に、フランスがドイツに対して巨額の賠償金を要求する一因となります。また3月には、これに怒った社会主義者達がパリ市民を指導し、パリ=コミューンという史上初の社会主義政権を樹立しています。しかし2ヶ月で、ドイツ軍とフランス軍によって鎮圧されていました。

 かくして、ドイツ地域にドイツ帝国という強大な国家が誕生しました。
 ただしビスマルクが本気で祝・ドイツ統一!なんて考えていたかというと、そういうわけじゃあございません。プロイセン第一主義の彼としては、あくまでもプロイセンを第一に考えた上での施策。ドイツ皇帝はプロイセン王の兼任と定められ、軍隊の主力である陸軍はドイツ帝国には設置されず、プロイセン王国のものが代行しました。

 このように、あくまでプロイセンという枠組みと力を温存させた上で、ドイツ帝国を形成させたのです。
 そして、議会(立法府)は連邦参議院と帝国議会から成り、このうち帝国議会は男子普通選挙制でしたが、あまり強い権限は持たせてもらえず、さらに政府の主要官職はユンカーが占めていました。

○アメとムチの政策

 さて、ドイツ帝国宰相となったビスマルクは、強固な国家とするために様々な政策を出します。
 まず第一に農業国だったプロイセン、ドイツの資本主義国家化を積極的に推進します。ところがこれは、彼の出身身分であるユンカーの地盤を揺るがすことになる、皮肉なことになりました。さらに、カトリック教会への弾圧を進めます。これは何故かというと、1870年に、ローマ教会が教皇権の強化に乗り出すんですね。

 そうしますと、中世によくあったように皇帝・国王VS教皇という構図になって、ドイツが混乱してしまうのを避けねばなりません。おまけに、プロイセンは元々プロテスタント系の国家。ところが、南ドイツ地域はカトリックの勢力が強い場所。しかも、1870年には中央党を組織して、政府の政策に反対するようになります。

 そこで同年と翌年にかけ、多くの司祭を投獄するなどの弾圧政策が行われました。文化闘争といいます。
 ところが、まだもう一つ、政府にとって厄介な抵抗勢力がいました。それが社会主義者達。ビスマルクはカトリック勢力と妥協する一方で、この時期、ヴィルヘルム1世狙撃事件が発生したのをキッカケに、1878年に社会主義者鎮圧法を制定し、社会民主党を弾圧します。

 ここで注目されるのは災害保険・健康保険・老齢年金などの社会保障制度を世界に先駆けて導入したことです。このシステムはその後、今に至るまで世界中に広がっていきます。こうして、社会主義者達が「社会保障制度の充実を!」と訴えても「既に始まっているじゃないか」という、状況を作ることに成功したのです。こういったやり方は、アメとムチと呼ばれます。

 また、お得意の外交面ではフランスによる復讐を防ぐためにオーストリア=ハンガリー二重帝国、ロシア帝国と三帝同盟を結びます。そして、バルカン半島を巡ってオーストリア=ハンガリー&イギリスと、ロシアが対立すると、ビスマルクはベルリン会議を開いて利害を調整(1878年)。が、この会議でロシアがドイツと仲が悪くなると、オーストリア、イタリアと三国同盟を結びます。また、ロシアとも結局、1887年に再保証条約を結ぶことに成功しフランス包囲網を形成したのです。

 こうして精力的に活動したビスマルクでしたが、新皇帝に就任したヴィルヘルム2世には「あいつは物事を慎重に進めすぎる」と嫌われてしまいました。さらに、一般大衆を相手に演説し、人気を勝ち取るような時代が訪れつつあり、次第にビスマルクのような手法は時代に合わなくなっていきます。1890年、ビスマルクは社会主義者鎮圧法を更新し、引き続き社会主義運動を力で押さえつけようとしましたが議会はこれを否決。そして宰相を解任され、自分の領地であるハンブルク近郊フリードリヒスルーに隠居。8年後に亡くなりました。

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