第16回 1965年〜79年(6):第3次&第4次中東戦争

○これまでのおさらい

 今回はユダヤ人国家「イスラエル」が中東に建国されたことに端を発するイスラエルとパレスチナ、アラブ諸国の戦争である中東戦争について見て行きましょう。このうち、第1次中東戦争、第2次中東戦争については既に見ていますので、簡単におさらい。

 まず1947年に国連でパレスチナ分割案が採択され、パレスチナのうち57%がユダヤ人に与えられることが決定。ところが、当時のユダヤ人はパレスチナの人口の35%に過ぎずアラブ側が反発。そして、1948年にイスラエルが建国されると、アラブ人(パレスチナ人)たちは戦争を決定し、エジプト、シリア、ヨルダン、イラクの支援で、アメリカの支援を受けるイスラエルと交戦。結果、イスラエルが勝利して、国連分割案の1.5倍の領土を手に入れることに成功し、一方で約80万人ものパレスチナ難民が発生します。

 続いて1956年7月、イギリス・アメリカの支援によるエジプトのアスワン・ハイ・ダムの建設が中止になったため、エジプトのナセル大統領がこれに対抗して、アジアとヨーロッパを結ぶ一大航路である、スエズ運河を国有化。「船で無料で通行させろ!」イギリスとフランスが反発します。そこで炊き付けたのが、イスラエルでした。スエズ運河の東側、シナイ半島を狙っていたイスラエルにエジプトを侵攻させ、交戦状態になったところで、事態を収拾するためと、イギリス軍とフランス軍を派遣し、スエズ運河の確保を狙います。

 そしてエジプト側は大敗しますが、何とアメリカとソ連が共同で、イギリスとフランス、イスラエルを批難し、国連緊急総会が開催されて停戦することになりました。

○イスラエル、領土大幅拡大!〜第3次中東戦争〜


 それでは、ここから新しい話。
 1964年、ヨルダンの首都アンマンを本部としたパレスチナ解放機構(PLO)が結成され、イスラエルに対する武力闘争が本格的に始まります。

 さらに1966年2月、イスラエル北東のシリアでバース党左派政権がクーデータで誕生すると、新政権はPLOを支持し、イスラエルとの国境に位置するゴラン高原から、イスラエル領内へ砲撃開始し、イスラエル側と小競り合いが発生します。

 一方、エジプトは1967年4月にヨルダンと軍事同盟を結んで、イスラエルとの対決姿勢を鮮明化。この頃、アメリカはベトナム戦争にかかりっきりであり、イスラエルを支援する余裕が無く、一方でアラブ側はソ連が支援していました。そのため、イスラエルは孤立無援となる恐れがありました。

 ・・・ならば、敵は早いうちに叩いておいた方が良い。
 イスラエルは、先制攻撃に出ることにしました。

 そこで1967年6月5日早朝、イスラエルはエジプト、シリア、ヨルダンの空軍基地へ奇襲攻撃をかけ、壊滅的な打撃を与えます。これに中東各国は驚き、翌6日、国連安保理が停戦決議を採択すると、ヨルダン、エジプト、シリア各国は次々に停戦を受諾。イスラエルもこれを受け入れましたが、これによってイスラエルは大幅に領土を拡大しました。

 左の地図が戦争前と戦争後の比較。
 イスラエルはゴラン高原、ヨルダン川西岸、シナイ半島を占領し、2倍以上に領土を拡大しました(地図は外務省ホームページより編集)。イスラエルはこの戦争を6日間戦争と呼んでいます。

 これによって、さらに40万人もの新たなパレスチナ難民が発生。
 家を失い、難民となった人々は、不便な土地でキャンプ生活を余儀なくされます。

○ヨルダンによるPLO排除

 続きまして1969年、パレスチナ解放機構(PLO)は第3代議長にファタハというグループのヤーセル・アラファト(1929〜2004年)を選出します。ファタハは、「パレスチナ民族解放運動」(Harakat al-Tahrir al-Watani al-Filastini)の頭文字をとったグループで、1957年1月1日にシリアの支持の元に設立され、1967年にPLOに参加しました。

 ファタハは武力でイスラエルと闘争することを基本としており、PLOはヨルダンを本拠地に、イスラエルに対してテロ攻撃を展開していきます。このためイスラエルはヨルダンに報復攻撃を仕掛け、ヨルダン市民に犠牲がでます。

 このため、ヨルダンのフセイン国王は、アラファト議長に対してPLOが武装解除するように要求。アラファトも妥協しましたがPLO急進派は受け入れず、さらにPLOの下部組織PLFPパレスチナ人民解放戦線)が西側諸国の飛行機を爆破するという事件をヨルダンで起こします(PFLP旅客機同時ハイジャック事件)。

 これにフセイン国王は激怒し、1970年9月にPLOゲリラ追放作戦を実施します。

 ところが、シリアがPLO支援を目的としてヨルダンに侵攻。全面戦争への危機が迫る中、アメリカとイスラエルはシリアをけん制する動きを見せ、さらにエジプトのナセル大統領が停戦を仲介し、レバノンへPLOが本部を移転させることに合意したことで、停戦が合意されました。

 なお、PLOはこの一連の事件を「黒い九月」(ブラックセプテンバー)と呼ぶと同時に、ファタハが結成した秘密テロ組織を「黒い九月」としました。そして、1972年に西ドイツで開催されたのミュンヘンオリンピックで、イスラエル選手団を襲撃し、選手団全員を殺害します(ミュンヘンオリンピック事件)。

 さらにPLFP(パレスチナ解放人民戦線)は、1973年7月20日には日本赤軍の丸岡修などと共同で、ドバイ日航機ハイジャック事件を起こしたり、1977年10月13日に、ドイツ赤軍と共謀してルフトハンザ航空機ハイジャック事件を起こすなど、活動を活発化させました。

 また、PLO本部が移ったレバノンでは、1975年に国内のイスラム教徒と、キリスト教マロン派の支配するファランジュ党との間で戦闘が起こります。これに対し、PLOがイスラム教徒を支援し、シリアも軍事介入し、さらにPLO排除のためにイスラエルがマロン派を支援するようになります。また次の時代のコーナーで紹介しますが、レバノン内戦の勃発です。

○第4次中東戦争

 時計の針を戻しまして、ヨルダンとPLOの停戦合意時点のお話。この停戦合意から何と数時間後、ナセル大統領は心臓発作でこの世を去りました。そして、副大統領だったアンワル・アッ=サーダート(1918〜1981年)が、新たなエジプト大統領になりました。


 前述のようにエジプトでは、第3次中東戦争でエジプトはシナイ半島を失い、サーダート大統領は軍備を整え、失地奪還を図ります。このため、第4次中東戦争が発生するのですが、その前にエジプト周辺の国々の動きを色々と見ておきます。

 まず、エジプトの西隣、リビアでは1969年9月1日、ムアンマル・アル=カダフィー(1942〜2011年)率いる青年将校たちがクーデタをおこし、国王イドリース1世を追放してリビア・アラブ共和国の樹立を宣言。カダフィーを実質的な指導者とする独裁政権が長らく続くことになります。また、パレスチナ解放機構 (PLO)の支持者として、積極的な支援を開始します。

 一方でシリアでは、第3次中東戦争の後にバース党の内部で権力争いが発生し、1970年11月16日のクーデターでハーフィズ・アル=アサド将軍(1930〜2000年)率いるグループが全権を掌握します。アサドは翌年に大統領に就任し、イスラエルに対する強硬姿勢を鮮明にして、ゴラン高原の奪還を図ります。

 こうした状況下、ついに第4次中東戦争が勃発します。


 1973年10月にエジプト軍は突如としてスエズ渡河作戦を実施し、これに呼応してシリア軍はゴラン高原に攻め込み、今度はアラブ側がイスラエルに対して奇襲作戦に出ます。

 さらに、アラブ諸国は石油価格の引き上げ、生産削減という手段に出て、オイルショック(石油危機)と呼ばれるほど世界中に影響を与えました。日本ではトイレットペーパーの買占めなどが発生して、社会現象となりましたね。

 さて、エジプトがイスラエルに侵攻した日は、ユダヤ教の大祭日であるヨム・キップール(贖罪)の日で、準備が整わなかったイスラエルは緒戦で苦境に立ち、その後はアメリカの支援で反撃。

 国連安保理の呼びかけによって、1974年1月18日にエジプトとイスラエルは兵力分離協定に調印。これによって、イスラエルはスエズ西岸から軍を撤退させ、エジプトはシナイ半島の一部を奪還に成功。さらに、イスラエルとシリアとの兵力分離協定では、シリアがゴラン高原の町、クナイトラの奪還に成功します。

○サーダート大統領、イスラエルへ

 第4次中東戦争終結後、アメリカのニクソン大統領(1913〜1994年)は、ヘンリー・キッシンジャー(1923年〜 )をイスラエルとシリアに派遣し、停戦をまとめます。この結果、戦争前はイスラエルが占領していたゴラン高原は、国連のPKO(国際連合平和維持活動)によって管理されるものとされました。

 一方、1974年10月、アラブ首脳会議はPLOをパレスチナ人の唯一の正式な代表であることを認め、11月にPLOのアラファト議長が国連総会でパレスチナ問題を訴えます。これは世界各国に大きなインパクトを与え、国連はPLOを正式なオブザーバーとして認定するとともに、パレスチナ人の民族自決を認める決議を採択。さらに100以上の国々にPLO代表部事務局が置かれました。日本にも1977年から設置されています。

 こうしてPLOの国際的地位が上昇する一方、「イスラエルを認めて共存するか、小さな国家の樹立でも良いのではないか」と考える和平を目指すグループと、PLFPのように徹底した抗戦を目指すグループとの間で内部抗争が激しさを増します。

 1977年、エジプトのサーダート大統領は、これまでの外交方針を大転換し、イスラエルのメナヘム・ベギン首相(1913〜92年)の招きでイスラエルを訪問。エルサレムでとの首脳会談に臨み、イスラエル国民に対して
「我々は、あなた方を我々の一員として心から受け入れる」
と宣言。イスラエルは歓喜の声に包まれました。

 同時にサーダートはイスラエルがアラブ領土から撤退すること、パレスチナ人に正義が行われるか否かが合意が成立する条件だとも述べ、イスラエルとの間で継続協議となりましたが、これ以降、エジプトはイスラエルとの平和共存路線に舵を切ります。その背景には、和平によって国内経済を立て直すと共に、イスラエルの背後にいるアメリカとの経済面・軍事面で関係を強化することにありました。

○エジプト・イスラエル、平和条約を締結

 サーダート大統領の動きには、多くのアラブ諸国の反発を買いましたが、エジプトとイスラエルの和平は進みます。

 1978年、アメリカのカーター大統領(1924年〜 )が、アメリカのキャンプ・デーヴィットにある大統領の山荘に、イスラエルのベギン首相とエジプトのサーダート大統領を招き、12日間にわたって協議。両首脳による激しい応酬もある中、カーター大統領のねばり強い仲介の結果、

 ・イスラエルがエジプトから獲得していたシナイ半島から段階的に撤退すること、
 ・エジプトはイスラエルがスエズ運河を通行する権利を回復すること。
 ・イスラエルが占領しているヨルダン川西岸と、ガザ地区について、パレスチナ側に自治権を順次渡し、イスラエル軍は部分的に撤退すること。
 が取り決められました。これを、キャンプ・デーヴィッド合意といいます。

 これを受けて1979年、エジプト・イスラエル平和条約が締結され、以下が取り決められました。
 ・相互の国家承認
 ・中東戦争の休戦
 ・シナイ半島からのイスラエル軍及び入植者の撤退

 これによって、エジプトはシナイ半島を正式に取り戻し、さらに両国首脳はこの年のノーベル平和賞に選出されます。しかし、イスラエルはパレスチナに関する項目は満足に遵守せず、またエジプトはさらにアラブ諸国から「単独で講和するとは何事だ!」と批難され、アラブ連盟からの経済制裁を受けます。

 そして1981年10月6日、サーダート大統領は十月戦争(第4次中東戦争)を記念する軍事パレードの観閲中に、軍内部のイスラム急進派によって暗殺されてしまいました。

 続いて大統領になったのが、副大統領だったホスニー・ムバラク(1928年〜 )。第四次中東戦争では、空軍司令官兼国防次官として緒戦での勝利を導き、国民的英雄になった人物で、大統領就任後は親米・親イスラエル路線を維持。2011年のエジプト革命で失脚するまで、独裁政権を維持し続けました。

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