第18回 1965年〜79年(8):東ヨーロッパの動きとソ連のアフガン侵攻

○はじめに

 前回は西ヨーロッパ諸国の動きを見ましたが、今度は東ヨーロッパ諸国の話。ギリシャを除けば、大半が社会主義国だったため、ソ連の動きが大きく影響しています。

ギリシャで軍事政権樹立!

 東ヨーロッパでは数少ない非共産主義国家のギリシャ。

 古代ギリシャの時代を除けば、あまり歴史の表舞台に登場することがないこの国は、古来より長らくビサンツ帝国(東ローマ帝国)の属州のような形でしたが、13世紀には十字軍の進出によって、フランスやスペイン、イタリアの諸侯たちが分割統治。

 さらに、1669年にはオスマン帝国がギリシャ全土を支配し、長らくその統治を受けますが、ナショナリズムの高揚によって、1821年からギリシャ独立戦争が開始され、欧米列強の思惑も絡む中で、1832年にギリシャ王国が誕生しました。国王は、ドイツのバイエルン王家からオットー・フォン・ヴィッテルスバッハが選ばれ、オソン1世として即位します。

 しかし、次第にギリシャ人たちはオソン1世の政治に不満を抱くようになり、1862年、ギリシャ軍の一部がクーデターを起こし、イギリス・フランス・ロシアといった欧米列強の承認を得て国民議会がオソン1世を退位させます。代わって欧米列強は、デンマーク王クリスティアン9世の次男クリスチャン・ヴィルヘルム・フェルディナント・アドルフ・ゲオルクを次の国王にえらび、1863年にゲオルギオス1世として即位しました。

 ・・・と大雑把にギリシャの略史を書いた上で、今回は国王のコンスタンディノス2世(1940年〜 )と首相のゲオルギオス・パパンドレウ(1888年〜1968年)が対立し、1965年にパパンドレウが、国王によって辞任させられたところからスタートしましょう。

 1967年に国王は選挙を行おうとしますが、ゲオルギオス・パパドプロス大佐を中心とした軍部が「選挙なんてさせるか!」と4月21日にクーデターを起こして成功。そして、当初は「やれやれ仕方がない」と思った国王は黙認していたのですが、パパドプロスらが左派を中心に数千の政治家を逮捕し、国民の自由の制限や、報道統制などを行う状況下で、「これは政権を打倒せねば!」と12月13日に決起。しかし失敗し、イタリアへ亡命しました。

 そして、パパドプロスは大統領に就任して、軍事政権を樹立しました。

 軍事政権は約7年間続き、この間に約4万5000人が投獄され、パパンドレウ元首相も逮捕。彼は自宅軟禁中の1968年11月に死去しました。それでも、軍事政権は親米的だったため、国際的な非難の中でアメリカは密かに支援します。

 結局、1973年にパパドプロスは秘密警察である軍事治安警察(ESA)にクーデターを起こされ自宅軟禁下に置かれます。そこで、お飾りの大統領に軍人のフェドン・キジキス(1917〜99年)が就任しますが、1974年にギリシャが支援したキプロスでのクーデターが失敗に終わったのを契機に、陸軍と軍事治安警察に対して、海軍と空軍が離反。

 そこで、軍の足並みが乱れたのを見たキジキス大統領は、7月23日にに軍首脳と有力政治家を集めて民政移管を認めさせ、フランスへ亡命していた元首相コンスタンディノス・カラマンリス(1907〜98年)を呼び戻して首相にしました。


 そして同年11月11日に総選挙が実施され、ギリシャは共和制に復帰しました。
 また、正式に君主制が廃止されたほか、キジキスは引退しました。


 その後のギリシャは政治的には比較的安定していますが、近年では財政悪化が表面化し、経済危機に陥り世界的な問題に飛び火しています。・・・と書き終えてみたら、ギリシャ略史が占める割合が随分多かったですね。

 ちなみにコンスタンディノス2世の姉であるソフィアは、前回紹介したスペイン国王ファン=カルロス1世の妃です。また、ギリシャ王家は今も健在のコンスタンディノス2世(ロンドン在住)をはじめ続いており、公式ウェブサイトもあります。
http://www.greekroyalfamily.gr/ (ギリシャ語)
http://www.greekroyalfamily.gr/en/royal-family.html (英語)


恐怖!チャウシェスク独裁政権の成立


 東欧のルーマニアは、1947年にソ連の圧力によって王政が廃止され、ルーマニア人民共和国となっていました。

 そして、1965年にニコラエ・チャウシェスク(1918〜89年)がルーマニア共産党の第一書記に就任して指導者となると、国名をルーマニア社会主義共和国と変更します。

 さらに、チャウシスクは1974年に大統領に就任し、独裁体制を確立します。

 チャウシェスク政権は、ソ連との距離を取り、西側諸国との関係強化に努めることによって、対外的なイメージアップに成功し、西側諸国からの多額の融資を引き出します。その一方で、個人崇拝の強制や秘密警察による反対者の徹底的な取り締まり、人口増加を目的にした堕胎や離婚の大幅な禁止などを行いました。

 堕胎を禁止すれば、たしかに人口は増えるかもしれませんが、子供を育てられない親が続出し、満足な食料が与えられなかったり、家を飛び出すことになったストリートチルドレンが増加し、今に尾を引く社会問題となっています。


 1980年代に入ると、ルーマニアは対外債務に苦しみ、国民の生活は窮乏を極めるようになるのですが、チャウシェスク大統領は贅沢三昧。床面積がアメリカ国防総省ペンタゴンに次いで、世界第2位という「国民の館」という巨大な宮殿まで着工を始めてしまいます。当然、国民の怒りは爆発しますよね(・・・いや、北朝鮮のように爆発しない国もありましたね)。


 その政権末期がどのようになったかについては、次の時代のコーナーで御紹介しましょう。



プラハの春−民主化はソ連につぶされる

 1968年8月20日、65万にもワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアに侵攻してきました。
 ワルシャワ条約機構は、もちろんソ連を中心とした東ヨーロッパ社会主義国の軍事同盟。一体、チェコスロヴァキアで何があったのでしょうか。

 当時、チェコスロヴァキアでは、アレクサンデル・ドゥプチェク第1書記(1921〜92年)らが「人間の顔をした社会主義」を目指して、検閲の廃止、言論や集会の自由、市場経済導入の試みなどの政策が、次々と打ち出され、「プラハの春」と呼ばれる改革が行われていました。しかし、これはソ連のレオニード・ブレジネフ政権にとって、容認できる動きではありませんでした。


 そこで、まずはワルシャワ条約機構首脳会議を招集し、ソ連の指導者であるブレジネフは、ドゥプチェクを呼び出して非難。しかしドプチェクは、
「改革は国内問題であり、共産党体制の堅持とソ連の同盟国であることは変わらない」
 として、非難を受け入れませんでした。
 一方、国民は帰国したドゥプチェクを拍手喝采で迎え、さらなる自由化と民主化に期待しました。


 このためソ連は、ついに軍事介入を決定。ドプチェクらを逮捕し、プラハの春を弾圧しました。
 この後、ドプチェクは一旦政権に戻されますが、もはや改革を継続することは出来ず、翌年4月にソ連の言うことを聞く人間としてグスタフ・フサークが擁立され、政権の座につきました。、



ソ連と西側諸国との緊張緩和

 その一方、1970年代に入るとブレジネフ政権は、ヴェトナム戦争を巡って対立したアメリカとのニクソン政権と関係改善を進め、雪解け(デタント)と呼ばれる状況を作ります。1972年には戦略兵器制限条約 (SALT I) に調印します。さらに1975年にはヘルシンキでソ連、ヨーロッパ33ヵ国(アルバニアは参加せず)、アメリカ、カナダの計35ヵ国の首脳が参加した全欧安全保障協力会議においてヘルシンキ宣言を採択。これによって

 ・東西ドイツ間をふくめ現存する国家間の国境を承認
 ・思想、良心、信仰、信条の自由をふくむ基本的人権の尊重
 ・旅行制限の緩和、情報流布の自由化
 ・合意事項の遵守(じゅんしゅ)状況を継続的に検討する会議を持つ

 とされます。これによって、西側諸国、東側諸国ともに現状の国境線を相互に承認すると共に、ソ連をはじめとする東側諸国は、西側諸国の文化などを少し解放することになります。例えば、モスクワの町の中でビートルズの音楽が流れるようになりました。



ソ連のアフガニスタン侵攻

 こうして西側諸国とソ連の関係改善が進むように見えましたが、1979年12月27日、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻し、親ソ連政権を樹立するという事件が発生します。なぜ、ソ連はアフガニスタンに攻め込んだのでしょうか。

 まず1973年7月、ムハンマド・ダーウード元首相(1909〜79年)が、従兄弟のザーヒル・シャー国王(1919〜2007年)を追放して政権を握り、アフガニスタン共和国の設立を宣言します。1977年初めには新憲法公布し、ダーウドは大統領に就任しました。一方、ザーヒル・シャー国王はイタリアに亡命し、これによって19世紀中盤から続いたバーラクザイ朝は終焉しました。

 しかしダーウードの治世は長く続かず、1978年4月にアフガニスタン人民民主党がクーデターを起こしてダーウドを殺害。そして、国名をアフガニスタン民主共和国とし、親ソ連のノール・ムハンマド・タラキー(1917〜79年)が革命評議会議長に就任します。ところが宗教界を弾圧したことから、イスラム教徒が反発。

 さらに人民民主党内部で、内部抗争も起こり、ハフィーズッラー・アミーン副首相(1929〜79年)とその支持者が、タラキーを逮捕して党職及び公職から解任します。間もなく、タラキーの病死が発表され、アミーンが第2代革命評議会議長に就任します。

 さて、タラキーはソ連寄りの姿勢でしたが、アミーンはアメリカ寄りの姿勢を取ることによって、自己の権力基盤を固めようとしました。また、アミーンもイスラム教徒を弾圧したことから、ムジャーヒディン(イスラム聖戦士)たちがジハード(聖戦)を宣言して、決起。南部を中心に強大な勢力を持つようになります。

 ソ連としては、国境を接する国で親米政権が誕生し、さらにイスラム教徒との戦いで混乱に陥っているというのは、安全保障上、見過ごせる話ではありませんでした。

 そこで1979年12月、ソ連軍がアフガニスタン全土に侵攻し、主要都市を占拠。そして、アミーンを処刑し、党内の権力闘争に敗れてチェコスロバキアに亡命していた、元副大統領のバブラク・カールマル(1929〜96年)を第3代革命評議会議長に就任させ、再び親ソ政権を樹立させるのでした。ちなみに、このソ連の動きに対して、日本を含めた西側諸国は、1980年のモスクワ・オリンピックをボイコットします。

 さて、このページで扱う時代は1979年までですが、折角なので一気に先まで見て行きましょう。

 ソ連のアフガン侵攻などによって、300万人以上の人達がパキスタンに難民として向かいました。しかも、親ソ政権であるカールマル政権に対抗するため、アメリカはCIAを通じて、ムジャーヒディンに武器などを援助して、勢力を拡大。1985年に反政府勢力は、アフガニスタン・ムジャーヒディン・イスラム同盟を結成し、ゲリラ戦を展開します。

 その抵抗運動は強力で、ソ連が派兵した約11万8000人のうち、1万5000人が戦死するという、大打撃を受けます。そこでソ連は、1986年にカールマルを引退させて、ムハンマド・ナジーブッラー(1947〜96年)を後継として擁立するなど、アフガニスタン政権にてこ入れを図ります。

 さらに1988年、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長(1931年〜 )が最高会議議長(国家元首)にも就任すると、対アフガン政策を転換。1988年5月から1989年2月にかけて、アフガニスタンから完全撤兵しました。とは言え、ソ連がいなくなったからアフガニスタンの混乱が収まるというものではありません。

 1992年、ナジーブッラーは大統領職を辞任し、反政府勢力がアフガニスタンを掌握。ブルハヌッディン・ラバニ(1940〜2011年)が初代アフガニスタン・イスラム国大統領に就任します。ムジャーヒディン達は内部抗争を始めてしまいます。


 この内部抗争に対し、人々は嫌気がさしていたのですが、1994年9月頃、、パキスタンの難民キャンプにいるアフガニスタン難民の若者が中心に、若者とイスラム神学校の教師達で 「タリバーン(神学生)」が組織され、圧倒的な支持を得ます。その勢いは強力で、1996年には首都カブールを陥落させ、指導者ムハンマド・オマル(1959?〜 )を首長とする、アフガニスタン・イスラム首長国を建国します。これに対し、ムジャヒーディン3派は北部同盟を結成し、国土の一割をなんとか支配。必死の抵抗を続けます。


 さて、タリバーンは、イスラム教の中でも特に独自解釈も加えた厳格な統制を住民に敷き、女性の就労や教育の禁止、さらに体をすっぽり覆うブルカの着用を強要します。一方、男性にはあごひげを生やすことを強要。さらに、映画や音楽、テレビなど、あらゆる娯楽を禁止します。違反者には宗教警察が厳罰を加える・・・。元祖イスラム政権であるイランでさえ「やりすぎだ!」と非難声明を出していたそうです。


 そして、偶像崇拝を禁止して美術館や博物館、さらにはバーミヤンの大仏を破壊。
 さらに2001年9月11日にアメリカで起きた同時多発テロの首謀者、ウサマ・ビンラディンと、イスラム過激原理主義組織アルカイダのメンバーをかくまっているらしいことが判明。何故かくまっていたかというと、タリバーン政権はパキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦しか承認されておらず、資金力の豊富なビンラディンと組まざるを得なかったとか。


 しかし、バーミヤンの大仏を破壊していたこともタリバン政権に対する国際的な嫌悪感を増幅させ、アメリカ軍と北部同盟による連合作戦が開始。抵抗は厳しい・・・と思われていましたが意外とあっさり、政権の座を追い出され、現在はアフガニスタン南部あたりで再起を伺っている・・・と言った状態のようです。


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