第22回 1980年〜89年(3):レバノンを巡る戦い

○はじめに

 前回のイラン・イラク戦争について、今度は80年代の中東情勢を見ていきましょう。

イスラエルによるレバノン侵攻

 70年代の終わりにイスラエルとエジプトが急速に関係を改善させ、相互の国家承認のほか、イスラエルが占領していたシナイ半島をエジプトに返還することが決まったことを紹介しました。

 一方で、1981年10月にはエジプトのサーダート大統領が暗殺され、ムバラク副大統領が大統領に就任しますが、引き続き親アメリカ、イスラエル政策を取り、イスラエル側も1982年4月にシナイ半島をエジプトに返還しました。

 このためイスラエルとしては、パレスチナ解放機構(PLO)の活動を弱体化させることで、イスラエルの安定を図りたいと考えます。



 そこで1982年6月、イスラエルのメナヘム・ベギン首相(1913〜92年)は、イスラエル国防軍(IDF)をレバノンに侵攻させます。これは、レバノンで活動するPLOの政治・軍事の拠点を叩き、レバノン内のキリスト教マロン派勢力を味方
につけることで、イスラエル寄り政権樹立を目指したものです

 イスラエル軍が北上を続ける中、アメリカのレーガン政権が仲介に乗り出し、8月中旬にアラファト議長をはじめ、PLO側たちが国外退去に同意。一方、レバノンの首都ベイルートでは、イスラエル軍が包囲する中で、キリスト教マロン派民兵組織「レバノン軍団」の指導者バシール・ジェマイエルが国会で大統領に選出されます。ところが彼は、翌9月に爆弾テロで暗殺されてしまいました。

 これに憤慨したレバノン軍団は9月16日、パレスチナ難民のキャンプに侵入し、大統領暗殺の報復として、女性と子供を中心に約800人を虐殺。これを、サブラー・シャティーラ事件といいます。

 この後、レバノンでは前大統領の兄であるアミン・ジェマイエルが大統領に就任しましたが、この虐殺事件に国際社会は強く非難し、国連総会でも「ジェノサイド」として非難する決議を賛成多数で可決。イスラエル国内でも政権批判が高まり、イスラエル軍はベイルートから引き揚げ、国連平和維持活動軍(PKF)がベイルートに駐留しました。

さらに泥沼化するレバノン情勢

 1983年4月、イランに支援されたイスラム聖戦機構が爆弾を積んだ車を使って、ベイルートのアメリカ大使館を爆破。これによって約40名が死亡します。さらに、キリスト教系の政府軍・民兵と、シリアの支援を受けたイスラム教ドルーズ派民兵による内戦が激化。

 そして1983年10月、イスラム過激派組織「ヒズボラ」の爆弾テロによって国連平和維持活動として駐留していた、アメリカ軍の本部とフランス軍の本部が同時攻撃され、アメリカ人241名、フランス人58名が死亡しました。このため、国連平和維持活動軍は順次撤退を開始し、レバノンはイスラエルやシリアなど周辺国の思惑や、様々な宗派の対立の下、国内武装各派が戦う無政府状態となりました。そして、ヒズボラによる爆弾テロや欧米人誘拐事件も多発しました。

その後のレバノン

 1988年9月、ジェマイエル大統領は任期満了に伴い、陸軍司令官ミシェル・アウン将軍(キリスト教系)を後任に指名しますが、イスラム系諸派は反発。これに対し1989年3月、アウン将軍はレバノンの大半を支配するシリア軍を追い出すべく、イラクの援助を受けてイスラム系住民が支配する西ベイルートを攻撃。市内は各派が入り乱れて戦うようになり、市民150万人の約半分が難民となります。

 結局1990年、シリア軍の再侵攻によって紛争が鎮圧され、2005年まで実質的なシリアの支配下に置かれました。大統領はマロン派、首相はスンナ派、国会議長はシーア派から選出するなどの統治機構の構築により、一応の安定は見せ、弱体化したレバノン軍団が非合法化されますが、ヒズボラは次々と自爆テロや要人等の誘拐などの事件を起こし、2006年7月のイスラエル兵拉致に至ってはイスラエル軍による報復もあるなど、今なお情勢は複雑になっています。

PLOの内紛

 さて、1982年のイスラエルのレバノン侵攻によって、アラファト議長が率いるPLO(パレスティナ解放機構)は拠点を失います。このため、チュニジアのチュニスに移すことになります。しかし、1985年10月にはイスラエルに空爆されるなど、目立った活動の成果が現れませんでした。

 状況が変わったのは1987年で、インティファーダと呼ばれるイスラエルによるパレスチナ軍事占領に対する民衆蜂起が発生します。これは、ガザ地区でイスラエル軍の大型トラックとパレスティナ人労働者を乗せた車との正面衝突事故が発生し、4名が死亡したことから、若者らがイスラエル軍などに石を投げたことが発端となります。

 こうした中で、1970年代より反イスラエルで活動するイスラーム聖戦や、1987年に組織されたイスラム抵抗運動(ハマス)などは、イスラエル支配地域を含めた歴史的なパレスティナ地域での国家樹立と、イスラエルに対する武装闘争を主張しますが、PLOは1988年11月に方針を転換し、「イスラエルと共存するヨルダン川西岸地区およびガザ地区でのパレスチナ国家建設」に方針を転換した上で、パレスティナ国家の樹立を、議決機関のパレスチナ国民評議会で宣言しました。

 1990年代は、イスラエルとの対話に舵を切るPLOの主流組織ファタハに対し、イスラエルとの徹底抗戦を訴え、自爆テロなど過激な戦術を取るハマスのという、2つの組織を中心にパレスチナ情勢を見ていくことになりますが、とりあえず、1980年代の動きとしてはここまで。

次のページ(第23回 1980年〜89年(4):東欧の社会主義体制崩壊)へ
前のページ(第21回 1980年〜89年(2):イラン・イラク戦争)へ

↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif