第24回 1980年〜89年(5):軍事政権終焉の韓国と中国の天安門事件

○はじめに

 今回は80年代の韓国と中国について見ていきます。まずは、韓国から見ていきましょう。

全斗煥による独裁政権

 韓国では、1979年に朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が暗殺され、国務総理である崔圭夏(チェ・ギュハ 1919〜2006年)が大統領に就任します。そして、金大中(キム・デジュン)らの反体制運動の活動家の政治的自由も回復され、新民党総裁である金泳三(キム・ヨンサム 1927年〜)、民主共和党総裁の金鍾泌(キム・ジョンピル 1926年〜 )を加えた、3人の金氏(通称で「三金」と呼ばれます)が次期大統領に名乗りを上げていました。

 こうしたことから「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードが人々の間に漂い、さらに大学では学生運動が盛んになり、また社会では労働運動が活発化していきます。

 これに対し、「そうはさせるか!」と反旗を翻したのが、全斗煥(チョン・ドゥファン 1931年〜 )です。朴正煕大統領暗殺時には軍の保安司令であった軍人で、同年12月に「粛軍クーデタ」によって軍の実権を掌握。 そして、1980年5月17日に全国に戒厳令を布告し、金大中、金鍾泌ら有力政治家を逮捕し、金泳三を自宅軟禁としました。

 さらに5月18日未明に、金大中の出身地・全羅南道にある光州市の全南大学と朝鮮大学へ韓国軍が投入され、金大中の逮捕に抗議するために集まっていた学生たちを連行し始めると、翌日には市民が続々と集まって軍と応戦します。激しい市街戦となり、5月21日には市民が全羅南道庁を占拠する事態となりますが、5月27日までに市民に多くの死傷者を出した上で、軍は鎮圧しました。

 これを光州事件(5.18光州民主化運動)といい、政府発表では170名もの死者が出たとされていますが、実態はそれ以上であると考えられています。また、当時は情報統制によって事件の真相が語られることはありませんでしたが、徐々に自体が伝わっていくと、韓国社会に大きな衝撃を与えることになります。

 一方、民主化運動を弾圧した全斗煥は、崔大統領を辞任に追い込み、8月27日に自らが大統領に就任しました。そして1980年10月には新たな憲法を制定したほか、反政府運動の取り締まりを強化。また、1984年には韓国の大統領として初めて日本を訪れ、昭和天皇と会談しています。

ソ連や北朝鮮との関係

 ところで、全斗煥大統領の時代には、韓国を揺るがす大きな事件が幾つか起きています。
 1つは、1983年9月1日の早朝、ニューヨーク発ソウル行きの大韓航空機が、ソビエト連邦のサハリン上空に入ったところ、ソ連機によって撃墜され、乗客240人と乗員29人が死亡した事件です。これを、大韓航空機撃墜事件と言います。なお、乗客の内訳は韓国人76人(乗員は全員韓国人)、アメリカ人62人、日本人28人、台湾人23人、フィリピン人16人・・・など、様々な国籍の人が含まれています。


ソ連のMiG-23 (ブリュッセル軍事博物館にて)
まずはMiG(ミグ)-23P迎撃戦闘機が警告射撃するも大韓航空機は気が付かず。
続いてSu(スホーイ)-15TM迎撃戦闘機がミサイルを発射し撃墜しました。

 当然のことながら韓国はもちろん、アメリカのレーガン大統領もソ連を激しく批難しますが、ソ連側は大韓航空機がスパイ活動をしていたとして取り合わず、ブラックボックスを回収していた事実も公表しませんでした。結局、このブラックボックスについてはソ連崩壊後の1992年に公開されましたが、そもそも、なぜ大韓航空機がソ連内に入ったのか、真相は未だ究明されていません。

 さらに同じく1983年の10月9日、全大統領がビルマ(現・ミャンマー)を公式訪問したところ、ラングーン(現・ヤンゴン)のアウンサン廟で、北朝鮮の工作員が仕掛けた爆弾が爆発。全大統領の車はたまたま到着が少し遅れていたことから難を逃れましたが、韓国側は閣僚4人を含む17人、ビルマ側の政府閣僚と関係者4人の合計21名が爆死しました。

 これをラングーン事件と言い、北朝鮮側は当初、犯行を否認しましたが、ビルマ政府は北朝鮮の工作員1名を射殺、2名を逮捕し、実行犯の自白によって北朝鮮による犯行であることが白日のもとに晒されました。ちなみにアウンサン廟は、ビルマ建国の父であるアウンサン(1915〜47年)を祀っている場所でしたから、ビルマ政府の怒りも相当なものであったことが推察されます。

 続きまして1987年11月29日、乗員・乗客115人を乗せたバグダッド発ソウル行きの大韓航空機が、ビルマ(現・ミャンマー)のアンダマン海上空で消息を絶ちました。その2日後に、同便を途中のアブダビ空港で下りた蜂谷真一および蜂谷真由美名義の日本旅券を所持する男女2名が、中東のバーレーン警察に拘束されました。

 2人は隙を突いて服毒自殺を図り、男性は死亡しますが、女性は一命を取り留め、ソウルに移送されます。

 実はこの2人、男性は金勝一(キム・スンイル)、女性は金賢姫(キム・ヒョンヒ)という北朝鮮の工作員で、金賢姫は北朝鮮による指示によって大韓航空機を爆破したことを自供しました。これを、大韓航空機爆破事件といいます。北朝鮮側は、未だに事件について韓国政府の自作自演であるとして認めていません。

全大統領の退陣

 さて、強権的な政治を行った全大統領でしたが、1988年開催のソウルオリンピック誘致への成功も虚しく、1987年春から政権打倒を目指す声が急速に高まり、大統領の直接選挙を定める憲法改正の要求が出されます。

 これを全大統領は一蹴した上に、警察による学生運動家の拷問致死事件が発覚し、中産階級の人々にまで反政府運動が飛び火。ソウルでは連日何万人ものデモ行進や市役所への襲撃、機動隊へ石や火炎瓶を投げつけるという事態となります。

 全大統領としては、翌年にソウルオリンピックを控え、これまでの政権による韓国の経済発展をPRするためにも、このままオリンピックが開催できなくなる状況は避けたいと考えます。そこで、全大統領が後継者として指名していた、与党・民主正義党総裁の盧泰愚(ノ・テウ 1932年〜 )は6月、「6.29民主化宣言」を出します。

 盧泰愚は、全大統領に民主化と大統領直接選挙制への移行を受け入れさせ、12月には新憲法にもとづく大統領選挙が実施され、盧泰愚が当選。新政権が翌年2月に発足し、全斗煥は政界から引退しました。これ以後、盧泰愚は民主化を進めるとともに、北朝鮮との関係改善やソ連や中国との国交樹立を行っています。

全大統領のソウルオリンピックの開催

 さて、1988年9月にはソウルオリンピックが開催されました。

 ところで、このソウルオリンピックは、前回のロサンゼルスオリンピックでは東側諸国が、前々回のモスクワオリンピックでは西側諸国がボイコットしたことから、12年ぶりにアメリカとソ連の双方が参加しています。また、この大会からテニスと卓球が正式競技として採用されました。

 さらに、アメリカのテレビ局NBCが多額の放映権料を払って、アメリカ東部で視聴率が見込める時間に陸上競技の決勝が行われるよう便宜を図ってもらうなど、オリンピックの商業化が一層進んだ形となりました。

 このほか陸上競技男子100mで、カナダのベン・ジョンソン(1961年〜 )が9秒79の驚異的な世界記録を樹立し、2位で9秒92だったカール・ルイス(1961年〜 )を下して優勝しました・・・が、2日後、ジョンソンのドーピングが発覚し、金メダル剥奪、記録抹消という事態が起こるという驚きの事態が発生しています。

の時代

 さて、1980年代の中国は(とう・しょうへい/ダン・シャオピン 1904〜97年)が政治の実権を握り、1981年に華国鋒が実権を失い党主席から失脚する一方、前年の1980年には腹心の趙紫陽(ちょう・しよう/ヂャオ・ズーヤン 1919〜2005年)を国務院総理(首相)とし、1981年に胡耀邦(こ・ようほう/フー・ヤオバン 1915〜89年)を党主席(翌年に主席制度が廃止され、党総書記に就任)とする、トロイカ体制が構築されました。

 は1978年10月の日中平和友好条約の批准書交換時に来日し、新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの視察や、1979年の米中国交樹立に伴う訪米で自動車、ロケット、航空機、通信技術産業など視察し、中国の産業近代化を図りたいと考えます。

 そこで「改革開放」を基本方針とし、社会主義的な経済政策の転換を図ります。農村では人民公社を解体し、生産請負制を導入。農家の自主的な農業経営を促します。さらに、広東省の深セン、福建省のアモイなどに経済特区、上海、天津、広州、大連などの沿岸部諸都市に経済技術開発区として指定し、外国資本の投資を認めることで、経済成長や技術力の中国への移転を図ります。

天安門事件

 こうして経済政策は大きな転換が図られる一方、政治体制は中国共産党の指導的地位を維持したままでした。一方、中国でも民主化を求める動きは次第に広がり、胡耀邦が一定の理解を示したところ、これに反発したは、1987年に彼を解任し、趙紫陽を総書記とし、李鵬(り ほう/リー・ポン 1928年〜 )を国務院総理(首相)とします。

 こうして民主化を認めない姿勢を明確にしたわけですが、1989年4月15日、事実上の軟禁生活を送っていた胡耀邦が亡くなると、学生たちによる胡耀邦の追悼集会をはじめとし、民主化を求める学生や市民の動きが活発化。そして、北京の天安門広場で連日、10万人規模のデモをくり広げ、次第に中国全土から天安門広場に学生や労働者が集結を始めます。


天安門広場

 5月15日にはソ連のミハイル・ゴルバチョフが中ソ関係の正常化のために訪中しますが、北京におけるデモ多発の状況下に中国共産党のメンツは丸潰れ。それでも趙紫陽総書記は学生たちへの理解を示し、天安門広場でハンガー・ストライキ(絶食して抗議行動)をつづける学生の前に姿を見せ、「来るのがおそすぎた。申しわけない」とかたり、学生らの要求に耳を傾ける姿勢を示すとともに、学生たちに絶食をやめるよう呼びかけます。

 一方、李鵬首相は一貫して強攻策を主張し、と共に学生たちを弾圧することを決定。6月4日に人民解放軍を投入し、虐殺をおこないます。西側諸国のメディアも北京にいたことから事件そのものが闇に葬られることはなかったものの、少なくとも数百人が虐殺されたと見られる一方、未だに正確な数字は明らかになっていません。

 これを天安門事件(1976年に起きた天安門事件と区別し、六四天安門事件とも)といい、中国では未だに徹底した情報統制が行われ、事件について知られないようになっています。

 また、趙紫陽総書記は失脚して北京で軟禁生活を送ることに。代わって、江沢民(こう・たくみん/チアン・ツーミン 1926年〜)が党総書記・中央政治局常務委員に抜擢され、90年代から2000年代前半の中国の指導者として活躍していきます。

香港とマカオの返還の決定


 ところで、時計の針を少し戻して1984年。イギリスの植民地であった香港が、1997年7月1日に中国へ返還されることが決まりました。このページの最後に、香港について少し見ていきましょう。

 まず1842年、第1次アヘン戦争によって香港島が清からイギリスへ割譲されます。さらに、1856年の第2次アヘン戦争(アロー戦争)の結果、1860年の北京条約で香港島に向かい合った九龍半島南部がイギリスへ割譲されます。トドメとして1898年、イギリスは香港防衛を口実に、九竜半島の残り全域(新界)と付属の島々を99年間の期限で強行租借(そしゃく)しました。

 この99年後というのが1997年なのですが、1984年にイギリスのマーガレット・サッチャー首相と、中国の趙紫陽首相が香港返還を定めた「中英共同声明」に署名。ここで、香港島、九竜、新界をふくむ全香港の主権を中国政府が回復することとし、付属文書の中で返還後の香港は特別行政区とし、50年間は現状の資本主義経済・社会制度を維持することが確認され、一国二制度が取り入れられることになりました。



現在の香港の様子

 続いて、香港から船で渡ることも一般的な交通アクセスであるマカオ(澳門)も、1984年に中国へポルトガルから返還が合意されることが合意されました。元々は1557年、ポルトガルが海賊討伐に功績があったことから、明(ミン)から居住権が与えられ、1887年に清との条約締結によって、ポルトガル領となったものです。



 こちらは1999年12月20日が返還日と決まり、やはり一国二制度が取り入れられることになりました。



植民地時代の面影を残しつつ、高層ビルが立ち並ぶマカオ
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