第3回 弥生時代の幕開け

○とりあえず、弥生って何?


▲弥生人のイメージ (国立科学博物館)
 夕食の飯を炊いている母親、農作業を終えて帰ってきた父親、犬と遊ぶ子供の姿を再現しています。


 いきなりですが、その「弥生」って言葉はどこから発生したのかご存じでしょうか。これは地名から採用された時代名なのです。

 すなわち、1884(明治17)年に、現在の東京大学農学部がある、東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現 東京都文京区弥生)の貝塚で、文様が実にシンプルな土器が見つかり、これを弥生土器と名づけたことに起源があります(当初は弥生式土器と呼ばれました)。

 この弥生土器、縄文土器と違ってバリエーションも少なく、形もシンプルなんですが、きれいな器型で均整がとれている。成形技術で言えば、縄文土器よりは上です。

 当時、これは大森貝塚で見つかった縄文土器とどういう関係にあるのか、また、天皇のお墓である古墳から見つかっている土器とはどんな関係にあるのか、そして何より、この土器を使っていた人々は日本人の祖先なのか(当時、古墳時代からが日本人の祖先で、縄文人は米も食べていない未開人だと考えられていたのです)。研究者は比較検討作業に入りました。

 結論が出たのはなんと60年後。
 弥生土器を使っていた人々も米を食べていたということが証明され、弥生時代というのがあったんだと、弥生の名前が時代名として定着。そして彼らは日本人の祖先であるらしい、となりました。そして骨や歯の形、そしてDNA鑑定、また弥生土器のルーツ探索などの研究によって、弥生人達は中国北東部や江南地域に住んでいた人々が、朝鮮半島経由で西日本にやってきて、次第に全国に拡散していったと考えられるようになっています。

 ※ちなみに、弥生土器が全て実用的でシンプルなデザインかといえば、例外もあります。特に東北地方では、引き続いて複雑な形をしていたり、装飾が色々施されていたりと、縄文土器との違いがわかりにくい物も出土しています。また、北海道のあたりでは、そもそも稲作は伝わっておらず(もしくは必要とされなかったか)、弥生文化の影響を受けつつ縄文人の子孫による続縄文時代というのが続いていました。


土器に描かれた絵を元に復元された楼閣 (奈良県 唐子・鍵遺跡)
 弥生土器の中には、絵が描かれたものも存在。果たして夢の建物を描いたのかどうかは不明ですが、同時の生活を知る貴重な手がかりです。これから見ていくのが、弥生時代です。

○弥生時代って?


 これから細かく色々書いていきますが、まずは弥生時代がどんな時代なのか、箇条書きにしてしまいましょう。
1.中国や朝鮮から、多くの人々がやってきて生活の風景が一変
2.稲作が始まった
3.金属製の道具が本格的に普及を始めた
4.自分達の住居の周りに、堀=環壕(かんごう)をめぐらせた
5.高床式倉庫や、ムラの神を祀る祭殿など、大きな建物を造営
6.戦争が激しくなった
7.王をはじめ、人々の間に身分の違いが出てきた

 ざっとこんな感じです。もちろん、あくまでも目安ですけどね。
 それでは、めくるめく弥生ワールドへレッツゴ〜!


▲弥生時代の村イメージ (荒神谷遺跡=島根県)


▲弥生時代の生活イメージ(横浜市歴史博物館)


倉庫から稲を取り出して、その日食べるお米の脱穀を行っています。

村の男たちが協力して住居を建築中。

こちらは方形周溝墓という、お墓を造っている様子ですね。

○水稲耕作の開始

 さて、人類はその歴史が始まって以来、長らく獲物を仕留めて食べるという狩猟生活を行ってきましたが、いつの時代にもチャレンジャーというのがいるもので、次第に植物も食べられるのでないか、そして食べられ、加工できて腹の足しになる植物があることを発見すると、今度はそれを自分たちの手で生産できないかと長い時間をかけて試行錯誤が行われます。  その結果、主食になりそうな食物は麦か米か・・・と、いう雰囲気になってきました。

 中国大陸では紀元前6000年ぐらいから、粟やキビの農耕を始めていましたが、長江下流域で稲作がスタートします。そして、この農業生産を拡大するために人々は色々な道具を生み出し、鉄器も普及開始。さらに、農耕生活は獲物の移動と共に人間も移動・・・ではなく、一定の範囲内で生産できるので人々の定住生活が本格的に始まります。

 そうすると、食料を守れ、土地を守れ、と人々は団結し、統率力のあるリーダーを選びます。そしてグループごとに争い、他のグループを従え・・・となっていきます。そして、次第に大きな領土を持つ国が誕生します。中国ではこうして広大な領域を支配する強力な国家が誕生していき、という国家を経て、紀元前3世紀には(前221〜前206年)、(前漢 前202〜8年)という強大な国家が誕生していきます。

 ・・・と、そんな中で新天地を求めて日本にやってきた人々ってのもいるんですね。
 最初に紹介した通り、彼らは基本的に、朝鮮半島経由で西日本にやってきて全国へ拡散していきます。
 それも何万、何十万、もしかすると数百万の単位だったかも知れないと言われています。

 日本列島移住の理由は権力闘争に敗れた亡命だったり、新天地を求めたりと色々ですが、農耕文化というのを日本に持ち込んできました。そして最近の研究では、紀元前10世紀ぐらいに、九州北部で水稲耕作がスタートしたと考えられています(私が学生の頃に比べて、ずいぶん年代が代わったなあ)。

 何を持って弥生時代のスタートとするかは議論の分かれるところですが、稲作に注目すれば、この頃が弥生時代のスタートということになります(が、そうすると縄文時代の晩期に食い込んでしまいますけど)。なお、福岡県の板付遺跡が、水田跡としては特に有名です。

 ちなみに散々に掲示板で指摘されたので、改めて書いておきますが・・・。
 ある日突然縄文時代が始まったわけでも、弥生時代が始まったわけでもありません。あくまで後世の人間が古代文化の変化を見て、大体こんな感じで区分できるなと考えたわけですので、バシッと線引きが出来るわけではありませんし、大体の線引きのラインだって人によって変わって来ますので要注意。地域によって色々と特色もありますしね。

○縄文人と弥生人

 それから水稲耕作は西日本を中心にゆっくりと普及をし始めていき、縄文人達は大陸から新たにやってきた弥生人と混血したか、もしくは極端な説では絶滅させられたとさえ考えられています。というのも現在発見されている人骨の例から推定すると、縄文人比較的は彫りが深い顔で、弥生人は比較適すっきりとした顔つき。背の高さも平均すると、縄文時代後期の男性153cm、女性148cmなのに対して、西日本の弥生人は男性163cm、女性151cmであり、かなり異なっています。

 また、アジア全体で考えると寒冷地に行くほど背の高さは高くなるとか。
 もっとも、身長については栄養状態が良くなれば平均値が上がるでしょうし、我々だって概して、親よりも背が高いことが多いですね。個人的には、背の高さの違いをもって縄文人と弥生人の違いを結論づけるのは難しいかな、と思います。ただ、やはり顔の形をはじめ、骨格を考えると、弥生人はシベリアや中国系だそうで、これら渡来系弥生人は、縄文人とは決定的に違うみたいです。


▲縄文時代早期の男性(左)と縄文時代後期・晩期の男性の骨格 (国立科学博物館)
 同じ縄文時代でも、時代が経つにつれて華奢な体が、筋骨たくましくなっていきます。

▲渡来系弥生人の骨格 (国立科学博物館)
 全身骨格は吉野ケ里遺跡から出土したもののレプリカ。

縄文顔
弥生顔
四角
顔の形
長円
隆起
眉間(みけん)
平坦
高い
低い
濃い
眉、マツゲ、ヒゲ
薄い
大きく二重
目とまぶた
小さく一重
大きい
耳タブ
小さい
小さい
大きい
大きく厚い
大きい
(出典:縄文VS弥生〜国立科学博物館特別展「縄文VS弥生」ガイドブック〜より)

 さあ、そうしたら我々の祖先は弥生人なのか、それとも縄文人とも関係があるのか。もしくは、実は縄文人が弥生人を飲み込んで、食生活や気候の変化によって次第に骨格が変わっていったのか。また、アイヌの人々は縄文人が変化していったものだろうと考えられていますが、ならば琉球の人々はどうなのか。もしくは、そもそもこの区分って正しいの?という疑問まで色々。

 なお、こうした日本人のルーツについて学者の間では、置換説、混血説、変形説、という読んで字のごとくの分類等で激論が交わされていますが、まあ周りの人の顔を見れば、もの凄く彫りが深い人から、薄い人まで顔つきは千差万別。骨格も色々ですわね。個人的には、割合はともかくとして混血していったんじゃないのかなあと思います。


↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif