第6回 推古天皇と蘇我氏
○仏教伝来
大伴金村失脚後、欽明天皇の朝廷で勢力を激しく争ったのが蘇我氏と物部氏でした。その火種の第1ラウンドが、538年に百済から伝わった仏教の取扱い。この時は百済の聖明王から金色に輝く釈迦像と仏典がサンプル品として届いただけでしたが、この新しい宗教について、渡来人の子孫でもあった蘇我稲目は受容を推進しようとし、一方で物部尾輿(おこし)は反対の姿勢を明確にしました。
*余談ですが、私的では522年に司馬達等が自宅の草庵に仏像を安置して礼拝していた、という記録があります。
なぜ蘇我氏は仏教受容を推進したのか。
すなわち、人には仏教を伝えたくせに、自国ではあまり仏教が盛んでなかった百済が衰亡の一途をたどり、逆に仏教信仰が盛んで多くの寺を建てていた新羅が栄えていたのを見て、「これは仏教の力だ」と蘇我氏は考えたのです。さらに、次々と朝鮮半島から渡来人が流入する中で、人々をまとめ上げる宗教として日本古来からの神祇信仰だけではなく、仏教が必要である、と考えたのです。
こうして蘇我氏と物部氏の争いはエスカレート。
欽明天皇没後、その息子の敏達天皇、用明天皇が相次いで病死し、後継者を誰にするかで大激突しました。尾輿から代替わりした物部守屋(もりや)は欽明天皇の息子である穴穂部皇子を、稲目から代替わりした蘇我馬子はその弟である泊瀬部(はせべ)皇子を推薦し、激突しました。
そして587年、蘇我馬子は穴穂部皇子を暗殺するという強行策に打って、さらに豪族をまとめ上げ、物部守屋を激戦の末に討ち取ることに成功したのです。当初は蘇我氏側が劣勢でしたが、ここで神秘的な力を発揮したのが14歳の厩戸皇子(うまやどのみこ)、いわゆる聖徳太子だったといわれます。用明天皇の息子である彼は、木で仏像を彫り、兵士達の心の拠り所とすることで大幅に士気を高め、一気に戦局を覆した・・・ようです。どこまで本当か解りませんけれども。
こうして蘇我馬子は泊瀬部皇子を即位させ(崇峻天皇)、さらに飛鳥(現在の奈良県明日香村)の地に法興寺(現在の飛鳥寺)を建立し仏教の拠点としました。
また、蘇我馬子は592年、「あいつはオレの言うことをきかねえ」と崇峻天皇を暗殺し、欽明天皇の娘で、敏達天皇の后だった炊屋姫(かしきやひめ)を即位させました。これが、推古天皇です(当時39歳)。そして、19歳の聖徳太子を摂政につけ、さらに娘を嫁がせ義理の息子とし、馬子は朝廷の大実力者として政治を行うのです。
飛鳥大仏 【国指定重要文化財】
文化財の指定名称としては、「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」。飛鳥寺の本尊で、少なくとも頭部は創建当時の模様。最近の研究ではその他大部分も創建当時のまま、とする説もあります。
○推古朝の政治
さて、推古天皇の下で朝廷の体制がさらに整えられていきます。まず603年、都を飛鳥の小墾田宮(おはりだのみや)へ移します。なお、小墾田宮の正確な場所は特定されていません。
そして、これまでの姓を使った授位のあり方に変えて、冠位十二階の制が定められます。これは、徳・仁・礼・信・義・智の6つをベースに、それぞれ大小に区分。つまり、合計12の位を設置し、豪族達は冠の色と飾りで自分達の朝廷内での等級が一目瞭然で区別されることになったのです。また、これは才能や功績によって上がることが出来るため、豪族達のやる気を引き出します。
もっとも、蘇我氏のような有力氏族は自分達の地位が脅かされる危険があるため、反発が予想。
そのため、有力な豪族は対象としませんでした。また、長い年月をかけて位は13,19、26,48,そして逆戻りで30階に落ち着いています。
そして604年に聖徳太子の肝いりで憲法17条を発表します。
これは、今の憲法とは異なるもので、朝廷内における人々の心構え、すなわち倫理規定を定めたものです。和をもって貴しとなし・・・とか、仏教を篤く敬えとか・・・全国の人民はすべて大王を主とあおげとか・・・。こうして、豪族達を地方の有力者から朝廷の役人へと次第に性格を変貌させていくことになるのです。考えてみれば、かなりの改革ですね。
ただし、実際に施行されたかまでは記録に残っておらず、不明です。
また、聖徳太子と蘇我馬子は歴史書である「天皇記」「国記」の歴史書の編纂にも乗り出します。
これによって、これまでの歴史が不明にならないように文字で後世に残し、同時に現政権の正統性も強調する狙いがあったのだと思います。ちなみに、蘇我馬子の子孫は後ほど述べる通り天皇に対する反逆者として滅亡に追い込まれたため、必然的に蘇我馬子についての功績も小さく描かれていますが、こうした大きな改革を蘇我氏の力無くして実現できたとは思えず、聖徳太子と蘇我馬子の二人三脚で新たな国家体制を意欲的に整備していったと考えられています。
○隋との外交
さて、これまで百済を通じて大陸の文物を取り入れ、互いに積極的に使者を交換していた大和政権でしたが、中国ではこの頃、ようやく小国分立状態が解消され、隋という大陸全土を統一した国家が誕生していました。そこで607年、聖徳太子は小野妹子を中心とした使節(=遣隋使)を送ることにしました(それに先立ち、中国の歴史書「隋書」には600年にも倭国からの使者が来た、と記されています)。この時、聖徳太子は日本側がへりくだった交渉を嫌い、対等に交渉せよと指示しました。そのため、日本側の国書には「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや」と記しました。つまり、我々日が昇る国の天子が、日が没する国の天子にお手紙差し上げます。お元気でしょうか?と記したわけです。
これを見た隋の皇帝である煬帝(ようだい 位604〜618年)は「野蛮人が、無礼な!」と激怒します。何しろ、隋は日が沈む国と書かれた上に、相手は自分達のトップを、隋の皇帝と対等に”天子”という名称で表現しているのです。しかし、隋は朝鮮半島の高句麗と戦っていたこともあり、わざわざ日本を敵に回すこともないと考え、翌年、外国の接待係だった名門出身、斐世清(はいせいせい)を使者として日本に派遣しています。ただし、隋から送られた国書の方も過激な内容だったようで、小野妹子は「途中で奪われました」と言って朝廷には提出しませんでした。
ともあれ、こうして隋との国交が樹立した大和政権は、斐世清を隋に送り返すと同時に、高向玄理(たかむこの げんり/くろまろ)、南淵請安(みなみぶち しょうあん)、および僧である旻(みん)らを留学生として派遣し、長期にわたり学習させました。彼らは後の政治改革で少なからぬ役割を発揮しています。
○新羅との戦い
一方、これまで通り朝鮮半島との関係も非常に重要なものでした。特に新羅との関係が非常に重要。562年に新羅が任那(加羅)を滅ぼして以降、日本と新羅の関係は腹のさぐり合い状態で、時には新羅が日本に仏像などを送っていましたが、591年には「任那を復興しよう!」と、日本は九州の筑紫へ2万人の兵士を派遣し、その時を伺い始めました(結局、3年後に撤兵)。
さらに600年には任那の残存勢力でしょうか、これが新羅と戦ったようで日本は救援へ。新羅を破ることに成功します。
1回目と思われる遣隋使はこの時に派遣されていますから、新羅問題に関する外交を展開したのではないかと思われます。その後の第2回目で小野妹子が派遣されることになりますが、日本と隋を対等に考えた外交を展開したのは、もしかしたら第1回目の遣隋使での出来事が影響しているのかも知れませんね。日本側の記録に残っていないのも何か怪しい(笑)。
さらに602年、聖徳太子の弟である来目皇子(くめみこ)を将軍とし、2万5000人を新羅遠征軍として派遣することが決定。来目皇子は軍事を担当する大伴氏配下の来目氏による軍事教育を受けており、軍事のエキスパートだったとか。・・・ところが、いざ朝鮮半島へ!と、九州の筑紫で準備していたところ病に倒れ、亡くなってしまいました。遠征は中止に。聖徳太子の悲しみは相当なものだったでしょうね。なにしろ、来目皇子は聖徳太子と父も母も同じでしたから。
これ以後は目立って大きな戦争はしなかったのか、新羅が任那と共同でしばしば使者を日本へ送るようになり、仏像などが送られています。また、高句麗も同様で、僧が来日したり、610年には隋に攻められたことから、日本に救援を要請。この時、派遣されてきた曇徴(どんちょう)という僧侶は、儒教の専門家でもあり、さらに彩色、紙、墨の製造法も伝え、飛鳥文化に大きな影響を与えています。また、水力を利用した臼の製造実演も行っています。
それから、高句麗は618年、隋が滅亡したことをいち早く報告。この時、ラクダも送ったそうですが、当時の人達のインパクトはどんなものだったでしょうか。気になるところです。・・・と、書いたところで聖徳太子が亡くなった後、623年には蘇我馬子が新羅に軍を遠征しているではありませんか。勢力を拡大する新羅に対し、これ以後も百済、高句麗、さらには隋の後に中国を統一した唐との間であの手、この手で外交が展開されます。
○聖徳太子と仏教
聖徳太子といえば、とにかく仏教を篤く信仰し、保護した人物でした。物部守屋との戦いで木彫りの仏像を作ったことは先に述べた通りですが、この戦いで勝利したことを感謝し、593年、難波の地に四天王寺(下写真)を建立しています。
そして607年頃には、聖徳太子が住居を構えた斑鳩(いかるが)に、法隆寺(下写真)を建立。その名の通り、仏法が隆盛になることを願ったものです。
▲法隆寺
法隆寺の魅力は、西院伽藍が古代からしっかりと変わらず残っているところ。流石に聖徳太子の時代のまま・・・とまでは言えないようですが、少し後の7世紀後半の再建時からは変わらぬ姿の様子。
さらに、仏教に対する勉強会も熱心に主宰し、高句麗から来日した僧の恵慈(えじ)ら共に様々な仏法を研究。特に、「法華経義疏(ほけきょうぎしょ)」などを発表しました。これに、維摩経義疏(ゆいま)・勝鬘経義疏(しょうまん)を加えた「三経義疏」(さんぎょうぎしょ)と総称される仏教注釈書が、聖徳太子のグループの成果のようです。
こうして、蘇我馬子と協力、晩年はかなり圧力を受け政治から遠ざかったとも言われる聖徳太子は、馬子よりも早く622年に死去。のちに聖人君主のように描かれるようになる彼ですが、実のところは非常に謎めいた存在で、果たして本当にいたのか?という説も有力に唱えられています。
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