第10回 女帝の時代
○女性を甘く見ると怖いぞ
古代の日本には色々な女性天皇がいますが、なかなか強力なパワーを持ったのがこれから御紹介する孝謙天皇。大仏が完成する少し前に、父親である聖武天皇から位を譲られました。
治世の初期は母親の光明皇太后が実権を握り、まず甥である藤原仲麻呂(藤原武智麻呂の子)を
「私の実家の勢力が衰えすぎだわ」
として取り立て、彼を使って、太政官を押しのけて直々に命令を下すようになります。そして仲麻呂は、橘諸兄を失脚させ、その息子である橘奈良麻呂(?〜757年)や大伴古麻呂、佐伯氏がクーデターを計画していることを察知。先手を打って彼らを処刑します(橘奈良麻呂の変)。
さらに757(天平宝字元)年、聖武上皇が亡くなると、その遺言を無視して大炊(おおい)王を即位させます(淳仁天皇)。光明皇太后、孝謙上皇、藤原仲麻呂の3人にとって操りやすい人物を選んだわけですね。さらに、40年前に祖父の藤原不比等が編纂したまま未施行だった養老律令を施行。これは大宝律令のマイナーチェンジ版で、40年も施行されなかった理由は不明ですが、藤原不比等の死によって改定作業が途中のまま終わっていたのかもしれません。
ともあれ、順風満帆の仲麻呂は、淳仁天皇から賜った、として自らの名前を恵美押勝(えみのおしかつ)と威勢良く改名。「汎(あまね)く恵むの美も、これより美なるは無し」「暴を禁じ、強敵に押し勝つ」という意味ですね。さらに太師(太政大臣)にまで上り詰めます。
ところが。
760年に光明皇后が亡くなり、孝謙上皇が病にかかったことが仲麻呂にとって転落人生の幕開けとなりました。と、言うのも孝謙上皇は、自分の病を治してくれた道鏡(どうきょう)というお坊さんに深く心酔してしまったのです。仲麻呂は「道鏡が取り立てられ、私は用済みになるのではないか」と不安でたまらない。そこで、淳仁天皇に「道鏡を追い出すように、上皇に忠告してくれ」と頼むのですが・・・。
これを聞いた孝謙上皇は大激怒。
「そんなふざけたことを言うのは、仲麻呂ね! いいわ、もう一度私が天皇の座について仲麻呂を追い出してやるわ!」
と、淳仁天皇は天皇の座を追われ、仲麻呂と共に挙兵するという事態になりました。まあ、色々と政敵を倒してきた人物ですから、味方が多いはずもなく、近江国高島郡(現・滋賀県高島市)で討たれました(藤原仲麻呂の乱)。
○称徳天皇の政治
こうして、孝謙上皇は再び即位し(称徳天皇)、道鏡を重用して政治を行います。なんと彼を太政大臣禅師にまで昇進させ、769(神護景雲3)年、九州の宇佐八幡宮より「道鏡を天皇に就任させれば、天下は太平になるでしょう」と神のお告げが出た、と報告が出たことから称徳天皇は狂喜乱舞。
・・・このお告げ、実は裏がありまして、大宰府の長官である大宰帥(だざいのそち)は、道鏡の弟である弓削浄人(ゆげのきよひと)だったんですね。これに、九州全域の神社を管轄する長官である、大宰主神(だざいのかんづかさ)の習宜阿曽麻呂(すげのあそまろ)が出世をたくらみ、ニセモノの神託をでっち上げたと考えられています。
そうとは知らない称徳天皇。
・・・しかし、果たして皇族以外の者を皇位に就けていいものだろうか?
よし、もう一度お告げを聞いてこさせよう。と、ここは慎重策を採り、お気に入りの女性(尼)である和気法均(わけのほうきん。尼になる前は和気広虫)を派遣することにします。・・・が、さすがに女性の足で九州は遠いだろうということで、彼女の弟である和気清麻呂(わけのきよまろ)が代わりに派遣されることになりました。
さあ、ここで藤原氏が動きます。中心となったのは藤原百川(ももかわ 藤原宇合の子)。
和気清麻呂に「道鏡を天皇に就けよなんてお告げを報告してはいかん」などと耳打ちしたのでしょう。宇佐八幡宮から戻ってきた和気清麻呂は、「お告げは偽りでした。皇族の血統を絶やしてはいけません、とのこと」と報告。称徳天皇は激怒し、なんと和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と、和気法均は別部狭虫(さむし)と、改名させ、大隈と備後に流刑にしました。なんと子供っぽいやり口!
とは言え、これによって道鏡の野望は阻止され、まもなく称徳天皇は死去。
道鏡は下野(栃木県)の薬師寺の別当として左遷され、2年後に死去しました。
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