第15回 律令社会の動揺、平将門と藤原純友の乱
○今回の年表
901年 | 菅原道真が大宰権帥に左遷される。 |
907年 | 唐が滅亡する。 |
907年 | 藤原時平ら、延喜格を撰上 |
907年 | このころ、「竹取物語」が成立か。 |
927年 | 藤原忠平ら、延喜式を撰上 |
935年 | 平将門、平国香らと大規模な紛争を起こす |
936年 | 新羅を破った高麗が、朝鮮半島を統一する。 |
939年 | 藤原純友、大規模な海賊行為を行う。平将門、新皇を名乗る。 |
940年 | 平将門、平貞盛と藤原秀郷の軍勢の前に戦死する。 |
941年 | 藤原純友、敗死する。藤原忠平、関白となる。 |
○醍醐天皇と藤原時平の奮闘?
さて、菅原道真が去った朝廷では、醍醐天皇と藤原時平のコンビで政治が進みます。この頃の朝廷では、それまでの律令体制による政治が崩壊しつつあり、一部の貴族や寺社、地方の有力者達が荘園(しょうえん)と呼ばれる私的な土地を多く確保。何故かというと、地方の豪族や農民達が朝廷からの課税から逃れるため、有力者達に自分達の土地を寄付するようになったんですね。
すなわち、
「幾らか貴方様に収穫物を寄進しますから、ここは貴方の土地と言うことで税の取り立てから守ってくれませんか」
「おお、いいよ。郡司や国司が税を取り立てに来るようなら、俺が圧力をかけてやる。」
というわけ。そのため、地方の行政官である郡司がそこに課税に行っても、
「ここは○○様の土地だ! あんたに課税する権利はない! 文句があるなら○○様に言いな!」
と追い返される。さらに、人々は課税から逃れるために戸籍を偽造したりと、特に地方政治は混乱状態にありました。
そこで902(延喜2)年を最後に、もはや班田(はんでん)は行われなくなったようで、その一方で同年、法に違反する荘園を作ってはいけないと太政官符を発布(延喜の荘園整理令)。対象は、なんと皇室にまで及びます。
そして、地方分権を進め、国司に一定の税の納入を義務づける一方で、地方国内の政治を任せるようになりました。
※それまでは、地方の大まかな行政は朝廷から派遣されてきた国司が担当し、租税の徴収や文書の作成は郡司が行っていましたが、大きく転換したことに。中央省庁から派遣されてきた神奈川県知事が、鎌倉市長や藤沢市長に代わって、直接地方自治に乗り出した・・・ってな雰囲気ですかね。もちろん、これ以後は国司の権限が拡大し、郡司の権限は減っていきます。
それから法体系をさらに整備しよう!
ということで、907年には延喜格が完成。「格」は何度か登場していますが、律令の修正・追加法令のこと。今回は869年から907年までに出された詔勅(しょうちょく)などを取捨選択しながら12巻にまとめました。ちなみに、格といえば「式」ですが、延喜式の方は完成が遅れ、藤原時平が亡くなった後、927年に完成し、施行されたのは、さらにその40年後! でした。
醍醐天皇と藤原時平は、菅原道真を追い出したことでえらく不評ですが、政治面では意欲的に国家建て直しのための改革に取り組みます。また、政策としては殆ど実現はしませんでしたが、第13回で登場した学者政治家の三善清行は、彼が30年にわたって地方勤務や政治家として活動した経験から、意見封事12箇条を提出。「課税対象者が地方からどんどん消えているぞ!国家財政は危機的な状況になる」「大学生(だいがくしょう)や身分の低い官僚の待遇を是正せよ!」「贅沢を戒めよ」などと書かれており、当時の社会の実情を知る上で良い資料となっています。
○委託化する国司達
ところで、国司が自分で課税しに行く・・・なんて、そんな仕事を全部やっていたら仕事に謀殺されますね。しかし、きちんと朝廷から「これだけ国庫に納めろ」と言われた量の税金を確保しなければいけません。そこで、有力な農民(田堵=たと)に一定期間、田畑の耕作を請け負わせて、「名」と呼ばれる課税対象となる土地から税を納めさせます。その代わり、田堵は国司と結託することで有力な立場となることが可能。力を付けていった田堵は、大名田堵とも呼ばれます。
こうして、国有地を農民に班田し、「耕作させてあげる」代わりに様々な税を納めさせるシステムから、納税請負人に好きにやらせる代わりに一定の税は納めてもらう、というシステムへ変貌。この政治体制を王朝国家として、律令国家と区別することもあります。
ところが、国司は国司で、地方は好きに運営していいものですから、税率を好き勝手に設定する例も。
国司になればオイシイ利益が得られるのですから、何とかして国司になりたい!と貴族達は、朝廷や寺社に財産を寄付してポイントを稼ぎ、国司の座を得ます(こうして国司の座をゲットすることを、成功=じょうこう といいます)。また、同じ国の国司に再び任命されることを重任(ちょうにん)といいます。
・・・そうしているうちに、「何も俺が田舎に行くこともないじゃないか」と考える奴らも登場。
なにしろ、国司と一口に言っても4種類に分かれ、守(かみ)、介(すけ)、豫(じょう)、目(さかん)という区別があったのですが、次第に守、介に権力が集中し、豫や目は仕事があまり無かった。そこで、自分の部下を代理として地方に派遣して政治を行わせるような国司も表れます。このやり方を遥任(ようにん)といいます。
国司についての話は、またそのうち行うことにしましょう。
色々問題はありましたが、 醍醐天皇の政治は延喜の治として一定の評価は得ています。その醍醐天皇は930年、天皇の住まいである清涼殿に落雷が起こり、多数の死傷者が出たことに仰天し、病死しました。なんでも、菅原道真の呪いと噂されたそうで・・・。